1970年の手紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:19 UTC 版)
「ゾディアック事件」の記事における「1970年の手紙」の解説
1970年、ゾディアックは報道機関に手紙やグリーティングカードを送ることで、当局を相手に意思疎通を図ろうとしていた。1970年4月20日の消印が押された手紙で、ゾディアックは自分の名前を13文字の暗号で記したとされるが、その暗号は現在も解読されていない。手紙には続けて、最近起きたサンフランシスコの警察署での爆弾事件は自分の仕業ではないとも記されていた。2月16日にゴールデン・ゲート・パークの駐車場で爆弾が爆発し、2日後にブライアン・マクドネル (英: Brian McDonnell) 巡査部長が死亡する事件が起きており、手紙はこの件について言及しているようだ。ただ、手紙には、警察官は撃ち返してくるため、子供を殺すよりも警察官を殺す方が名誉なことだとも書かれている。爆弾の絵も描かれており、ゾディアックは爆弾でスクールバスを爆破すると主張した。爆弾の絵の下には " = 10, SFPD = 0."と書かれていた。 1970年4月28日付けの消印が押されたグリーティング・カードがサンフランシスコ・クロニクル社へ送られた。カードには、新聞に自分が書いたことの詳細を載せなければ、すぐにバスを爆弾で爆破すると書かれていた。人々がゾディアックの記号が描かれたボタン (英: button) を身に着けることを望んでいるとも記されていたが、"button"の綴りを間違えて"buton"と書いていた。 1970年6月26日付けの消印が押された手紙では、人々がゾディアックのボタンを身に着けなかったため腹が立ったというような内容が書かれていた。ゾディアックは38口径の銃で駐車した車の中にいた男を撃ったと主張した。1週間前の6月19日に25歳のリチャード・ラデティッチ (英: Richard Radetich) 巡査部長が殺害された事件に言及している可能性がある。その日の午前5時25分、ラデティッチ巡査部長がパトカーの中で駐車違反切符に書き込みをしていたとき、閉じていた運転席側の窓から違法駐車とは無関係の人物に38口径の拳銃で頭を撃たれたのである。ラデティッチ巡査部長は15時間後に死亡した。サンフランシスコ市警察は事件にゾディアックが関係する可能性を否定した。この事件は現在も未解決のままである。 6月26日付けの消印の手紙には、フィリップス66が販売しているサンフランシスコ・ベイエリアの道路地図が同封されていた。地図上のディアブロ山(英語版)の絵の上に、ゾディアックは以前の手紙と同様の円と十字を組み合わせた図形を描いていた。十字の端に0、3、6、9という数字が配されており、0が磁石のNを意味しているとも書かれていた。手紙は32の記号で構成される暗号が含まれていた。ゾディアックはその暗号は埋められた爆弾の場所に繋がるものであり、爆弾は秋に起爆すると主張していた。暗号は解読されず、仕掛けたという爆弾も発見されなかった。ゾディアックは手紙に" - 12, SFPD - 0"と記していた。 1970年7月24日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクルに届いた。手紙の内容は、ゾディアックがキャスリーン・ジョーンズを誘拐しようとしたことを認めるというもので、事件から4か月後のことだった。1970年7月26日の手紙の内容は、『ミカド』のある歌をもじったもので、天国で自分の奴隷をいかに拷問するかという内容だった。手紙には円と十字を組み合わせた図形が大きく誇張的に描かれており、" = 13, SFPD = 0"と記されていた。手紙の最後の1枚の下部に、ディアブロ山の暗号はラディアンが重要であると書かれていた。1981年、このヒントを元にゾディアック研究家のガレス・ペン(英語版) (英: Gareth Penn) が精密な調査を行った結果、ディアブロ山の暗号はゾディアックによる2件の犯行があった場所を指していると判明した。 1970年10月7日、サンフランシスコ・クロニクル社に3インチ×5インチの大きさの葉書が届いた。葉書にはという印とともにゾディアックと署名されていた。小さな十字も描かれており、血液で描いたものとされる。葉書のメッセージはサンフランシスコ・クロニクルの新聞から文字を切り抜き、貼り付けることで書かれていた。また、葉書の端に穴が13箇所開けられていた。捜査を担当していたアームストロングとトスキは、この葉書がゾディアックが送ったものである可能性が高いことに合意した。
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