金大中政権時代
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「韓国における政党史」の記事における「金大中政権時代」の解説
国民会議と自民連の連合で1998年2月に誕生した金大中政権であったが、表11に示されるようにハンナラ党が国会で過半数を占めており、少数与党としてのスタートとなった。 表12:金大中政權発足時の院内交渉団体別議席数政党議席数備考与党(121議席) 国民会議 78 自民連 43 野党(163議席) ハンナラ党 163 新韓国党と民主党が統合して結成 非交渉団体 12 国民新党(8名)含む 総議員数296名(欠員3名) 出典:大韓民國國會事務處編『大韓民國國會60年史』(大韓民國國會事務處)742頁の表「교섭단체 의원 변동현황」(交渉団体議員変動現況) そのため、金鍾泌の国務総理同意案は6ヶ月以上も承認が遅れ、当初国務総理代理としての任命を余儀なくされるなど、国政運営に困難がつきまとった。こうした状況を打開するために、野党議員の切り崩しと群小政党(国民新党)の取り込みを図った。こうして1998年9月に与党は過半数を確保することができた。 表13:金大中政権発足後、定期国会開会時の議席数政党議席数備考与党(153議席) 国民会議 101 国民新党7名(残る1名は自民連に入党)が合流 自民連 52 野党(140議席) ハンナラ党 140 非交渉団体 6 欠員0名 出典:大韓民國國會事務處編『大韓民國國會60年史』(大韓民國國會事務處)742頁の表「교섭단체 의원 변동현황」(交渉団体議員変動現況) 国民会議と自民連は公約として1999年末までの議員内閣制への移行を掲げていたが、議員内閣制に消極的であった金大中大統領は、経済危機の状況から議員内閣制へ移行するための憲法改正は不可能であると主張し、与党内部で対立が生じ始めた。當時、与党は過半数を占めてはいたが(160議席)、憲法改正に必要な3分の2の議席(199議席)は確保していなかった。そのため改憲を強行すれば連立政権が崩壊し、自民連も野党に転落する可能性があったため、自民連は改憲断念に追い込まれた。その一方で、金大中大統領は2000年4月に行われる国会議員総選挙に向け、新たな体制で臨み單獨勝利するために、自身の政党である国民会議を新党に改編するための準備を進め、2000年1月20日に新党「新千年民主党」(民主党)の結党大会を開催し、国民会議は民主党に合流した。対する野党のハンナラ党においても国会議員選挙の公薦を巡って、趙淳名誉総裁や李基澤顧問などの党重鎮が同党を離党し、民主国民党(民国党)を3月に結成した。
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