金大中政権時代とは? わかりやすく解説

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金大中政権時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 13:46 UTC 版)

韓国における政党史」の記事における「金大中政権時代」の解説

国民会議自民連連合1998年2月誕生した金大中政権であったが、表11示されるようにハンナラ党国会で過半数占めており、少数与党としてのスタートとなった。 表12金大中政權発足時の院内交渉団体議席政党議席備考与党121議席国民会議 78 自民連 43 野党163議席ハンナラ党 163 新韓国党民主党統合して結成交渉団体 12 国民新党(8名)含む 総議員296名(欠員3名) 出典大韓民國國會事務處編『大韓民國國會60年史』(大韓民國國會事務處742頁の表「교섭단체 의원 변동현황」(交渉団体議員変動現況) そのため、金鍾泌国務総理同意案は6ヶ月以上も承認が遅れ、当初国務総理代理としての任命余儀なくされるなど、国政運営に困難がつきまとったこうした状況打開するために、野党議員切り崩し群小政党国民新党)の取り込み図った。こうして1998年9月与党過半数確保することができた。 表13金大中政権発足後、定期国会開会時の議席政党議席備考与党153議席国民会議 101 国民新党7名(残る1名は自民連入党)が合流 自民連 52 野党(140議席ハンナラ党 140 非交渉団体 6 欠員0名 出典大韓民國國會事務處編『大韓民國國會60年史』(大韓民國國會事務處742頁の表「교섭단체 의원 변동현황」(交渉団体議員変動現況国民会議自民連公約として1999年末までの議員内閣制への移行掲げていたが、議員内閣制に消極であった金大中大統領は、経済危機状況から議員内閣制へ移行するための憲法改正不可能であると主張し与党内部対立生じ始めた當時与党過半数占めてはいたが(160議席)、憲法改正必要な3分の2議席199議席)は確保していなかった。そのため改憲強行すれば連立政権崩壊し自民連野党転落する可能性があったため、自民連改憲断念追い込まれた。その一方で金大中大統領2000年4月行われる国会議員総選挙に向け、新たな体制臨み單獨勝利するために、自身政党である国民会議新党改編するための準備進め2000年1月20日新党新千年民主党」(民主党)の結党大会開催し国民会議民主党合流した対す野党ハンナラ党においても国会議員選挙の公巡って趙淳名誉総裁李基澤顧問などの党重鎮が同党を離党し民主国民党民国党)を3月結成した

※この「金大中政権時代」の解説は、「韓国における政党史」の解説の一部です。
「金大中政権時代」を含む「韓国における政党史」の記事については、「韓国における政党史」の概要を参照ください。

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