済州島民の蜂起と韓国による鎮圧
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「済州島四・三事件」の記事における「済州島民の蜂起と韓国による鎮圧」の解説
1948年に入ると、南朝鮮当局が南側単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起が4月3日に起こった。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。一説には、左派系指導者に指揮されていたものの、右翼青年団の暴行・強姦等に耐えかねて参加した一般民衆、逆に何も知らされないまま呼び出されて参加する形になった者もいたと言われる。また、左派弾圧のために島外から送り込まれた団体の中には、反共青年団体の他、ヤクザ組織や米軍の反共路線により息を吹き返した旧日本軍協力者からなる団体もあったという。 済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。この混乱により済州島の住民を中心に、戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ、現在の在日韓国・朝鮮人の先祖にもこういった者が多く含まれるとされる。済州島では米軍政側は警備隊(朝鮮警備隊。韓国軍の前身)を投入し、蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力は山間部に逃げ込み、そこからゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている。 1948年9月に金日成は朝鮮統一国家を標榜する朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。李承晩は武装隊の指導部が北朝鮮を支持している点などから、済州島の山に篭もる武装隊に対し鎮圧を再び決意、1948年10月に「海岸線より5キロ以上の地域に出入りする人々を暴徒と見なし、無条件射殺する」という布告を発し、さらに同年11月には済州島全土に戒厳令を敷いた上で、パルチザンと住民を切り離すため、中山間(山の麓)の村々を焼き払う「焦土化作戦」を展開した。結果、沿岸部には難民が6万人あふれたともいう。反共団体らは警察・軍の後押しで討伐隊を組織、山間部には単に難を避けるため逃げ込んだ者も多かったのだが、そういった者も殺害の対象とし、さらには、その家族を難民や住民の中から捜し出して殺害することまで行った。一方、パルチザン側の報復も激しく、後には疎開地下の住民も討伐隊陣営側とみて無差別攻撃を行ったとされる。 1949年5月に再選挙が成立し、6月には武装蜂起隊総責任者の李徳九が射殺され、蜂起していた武装隊の組織的抵抗はほぼ終了したものの、虐殺は終わらなかった。 1949年12月24日には、朝鮮半島南側で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であるとの情報操作を行った。 1950年に朝鮮戦争が起こると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極め、1954年9月21日の漢拏山禁足地域の全面開放宣布までに2万5千~3万人超、完全に鎮圧された1957年までには5万~8万人の島民が殺害されたとも推測される。(死者数の違いは、期間の取り方の違いより、推定のしかたの違いによる点が大きいようである。2万5千~3万人超は、個々の被害者の積上げに把握されていない被害推計を加算したもので、5万~8万人は島民人口の減少数から自然減や島外脱出による減少を捨象したものと見られる。) また、朝鮮戦争中の1950年保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。 1960年李承晩政権が倒れると見直しの動きも一時起こったが、その後クーデタによる軍事政権ができると反共が国是となり此の動きは後退、1980年代以降の民主化の動きの中で単なる左派の武装蜂起とすることに見直しの声が高まり、2000年1月の金大中政権時代に、ようやく「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、この法にもとづいて、済州島4・3事件の真相究明が政府事業として行われることになった。この法律により公式に設けられた「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復委員会」では1954年9月21日の犠牲者までを対象とし、認定された犠牲者数だけで1万4千人、同委員会は把握しきれていない数まで含めると2万5千人~3万人になるとしたものである。 歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ密航し、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。1947年の事件以来その後も虐殺・弾圧が相次いだ為、恐怖から島を脱出する者が続出し、済州島4・3事件犠牲者在日遺族会の会長の康実によれば、済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したともいう。木村光彦(青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる。野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま移住した非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている。 この事件を初めて発表した在日韓国人作家の金石範は2015年4月1日に第1回済州四・三平和賞を授賞したが、授賞に際しては右翼団体の妨害もあった。
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