済州島民の蜂起と韓国による鎮圧とは? わかりやすく解説

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済州島民の蜂起と韓国による鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 15:04 UTC 版)

済州島四・三事件」の記事における「済州島民の蜂起と韓国による鎮圧」の解説

1948年に入ると、南朝鮮当局南側単独選挙を行うことを決断し島内では選挙前に激し左右両派の対立はじまったその中で単独選挙反対する左派島民武装蜂起4月3日起こった警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者出た一説には、左派指導者に指揮されいたものの、右翼青年団暴行・強姦等に耐えかねて参加した一般民衆逆に何も知らされないまま呼び出され参加するになった者もいたと言われるまた、左派弾圧のために島外から送り込まれ団体中には反共青年団体の他、ヤクザ組織米軍反共路線により息を吹き返し旧日本軍協力者からなる団体もあったという。 済州島民の蜂起に対して韓国本土から鎮圧軍として陸軍派遣されるにあたり政府の方針反抗した部隊による反乱生じ麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。この混乱により済州島住民中心に戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ現在の在日韓国・朝鮮人先祖にもこういった者が多く含まれるとされる済州島では米軍政側は警備隊朝鮮警備隊韓国軍前身)を投入し蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊残存勢力山間部逃げ込み、そこからゲリラ戦対抗するようになったため、治安部隊潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民処刑粛清行った。これは、8月15日大韓民国成立後韓国軍(この時正発足)によって継続して行われた韓国軍は、島民の住むを襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに少女達を連れ出しては、2週間渡って輪姦虐待繰り返した後に惨殺したと言われている。 1948年9月金日成朝鮮統一国家標榜する朝鮮民主主義人民共和国成立宣言した李承晩武装隊の指導部北朝鮮支持している点などから、済州島の山に篭もる武装隊に対し鎮圧を再び決意1948年10月に「海岸線より5キロ上の地域出入りする人々暴徒見なし無条件射殺する」という布告発し、さらに同年11月には済州島全土戒厳令敷いた上でパルチザン住民切り離すため、中山間(山の麓)の々を焼き払う焦土化作戦」を展開した結果沿岸部には難民が6万人あふれたともいう。反共団体らは警察・軍後押し討伐隊組織山間部には単に難を避けるため逃げ込んだ者も多かったのだが、そういった者も殺害対象とし、さらには、その家族難民住民の中から捜し出して殺害することまで行った一方パルチザン側の報復激しく、後には疎開地下住民討伐隊陣営側とみて無差別攻撃行ったとされる1949年5月再選挙成立し6月には武装蜂起隊総責任者李徳九が射殺され蜂起していた武装隊の組織的抵抗はほぼ終了したものの、虐殺は終わらなかった。 1949年12月24日には、朝鮮半島南側韓国軍住民虐殺事件聞慶虐殺事件)を引き起こし共産主義者による犯行であるとの情報操作行った1950年朝鮮戦争が起こると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極め1954年9月21日漢拏山禁足地域の全面開放宣布までに2万5千~3万人超、完全に鎮圧され1957年までには5万~8万人島民殺害されたとも推測される。(死者数違いは、期間の取り方の違いより、推定のしかたの違いによる点が大きいようである。2万5千~3万人超は、個々被害者積上げ把握されていない被害推計加算したもので、5万~8万人島民人口減少数から自然減島外脱出による減少捨象したものと見られる。) また、朝鮮戦争中の1950年保導連盟事件起きると本土同様に刑務所1200人が殺害された。海上投棄されていた遺骸日本人によって引き上げられ対馬寺院安置されている。 1960年李承晩政権倒れると見直しの動き一時起こったが、その後クーデタによる軍事政権ができると反共国是となり此の動き後退1980年代以降民主化動きの中で単なる左派武装蜂起とすることに見直しの声が高まり2000年1月金大中政権時代に、ようやく「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、この法にもとづいて済州島4・3事件真相究明政府事業として行われることになった。この法律により公式に設けられた「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復委員会」では1954年9月21日犠牲者までを対象とし、認定され犠牲者数だけで1万4千人、同委員会把握しきれていない数まで含めると2万5千人~3万人なるとしたものである歴史的に権力闘争敗れた両班流刑地左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時日本政府防止策かいくぐって日本密航し定住する人々もいた。韓国併合後日本統治時代初期同じく日本政府禁止破って朝鮮から日本渡った20万人ほどの大半済州島出身であったという。日本の敗戦後その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本など避難しそのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本逃れた島民大阪市などに済州島コミュニティ形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮コミュニティからは距離を置いた1947年事件以来その後虐殺・弾圧相次いだ為、恐怖から島を脱出する者が続出し済州島4・3事件犠牲者在日遺族会の会長の康実によれば済州島では事件前1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したともいう。木村光彦青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件政府鎮圧したが、その後共産主義者反政府活動及び保守派主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本ひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ない1946年1949年にかけて、検挙強制送還された密入国者数は5万人近く森田芳夫戦後における在日朝鮮人人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国総数20万人25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後2万人が「日本脱出したとされる野口裕之産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去暴露恐れ加害者思惑絡み合い済州島四・三事件真相葬られているが、「不都合な狂気の殺戮解明まともに取り組めば」「事件大量密航難民日本押し寄せ居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者圧倒的な割合占めるのは事件後、難民となり日本逃れそのまま移住した非合法合法人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている。 この事件初め発表した在日韓国人作家金石範2015年4月1日第1回済州四・三平和賞授賞したが、授賞に際して右翼団体妨害もあった。

※この「済州島民の蜂起と韓国による鎮圧」の解説は、「済州島四・三事件」の解説の一部です。
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