週刊社会タイムス
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会社の宣伝紙にまで形を変えてしまっていた社会タイムスを再び政治新聞として復活させ、読者を増やしていくことは至難の技であったが、社員は給料の遅配欠配にもめげず、新聞を出し続けた。最盛期には、発行部数2万にまで増えたという。編集部の中心は太田派社会主義協会で、その立場から社会党の動向や金大中拉致事件など、様々な社会問題を取り上げた。しかし、日本共産党の勢力が強い関西で、共産党に対抗するため、関西の社会党内で社公民路線が台頭すると、社公民連合路線をめぐって、週刊社会タイムス編集部は分裂し、反社公民連合派は社会タイムスから離れて、「ぴーぷる」を創刊し、社公民連合派の社会タイムスはその後しばらく発行され続けるが、社会党解体の直前の1995年12月15日付1518号で「長期休刊」し姿を消した。同号掲載「本紙長期休刊にあたって」には「敗戦後五十年、日本社会党の歴史的役割は終わりました。国内外の情勢の変化によって日本社会党を支えてきた社会タイムス紙の役割もほぼ終わり、寂しさも一しおです」とある。こうして、40年以上に及んだ社会タイムスの歴史は終止符を迎えることとなった。 しかし、社会タイムスに携わった人々の中から、多くのジャーナリストや市民運動家が誕生しており、社会タイムスは戦後のジャーナリズム史・社会運動史に一定の影響を与えたということが出来る。
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