蒲刈とは? わかりやすく解説

蒲刈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 01:23 UTC 版)

三之瀬」の記事における「蒲刈」の解説

この地は東・西・南から海流流れ込み複雑な潮の流れ生み出す海域である。「三之瀬」とはこの3つの瀬戸合流していたことに由来するまた、下関山口県)を一之関、上関山口県)を二之関、そしてここを三之関呼ばれていた、とする風説も残る。古来からこの地には船が往来し、そして複雑な海流は彼らを悩ませた。 古来における上蒲刈島下蒲刈島全域は”日高”と呼ばれ、蒲刈とは現在の三之瀬・向浦・大津泊など三之瀬瀬戸周辺の地のことを指していた。後に上蒲刈島を”日高下蒲刈島を”蒲刈”と分けて呼ぶようになり、更に後に全域を”蒲刈島村荘園名を”日高庄”と呼ぶようになった伝承によると、瀬戸内海航行していた神武天皇一行は、この地の南方強風煽られ舵が折れ自由がきかなくなり潮の流れ乗って向浦にたどり着き、そこで天皇は山に登り周囲展望しようとする生い茂り視界妨げていたためこれを刈りとって周囲展望した。そこから蒲刈と呼ばれるようになった。 『芸藩通志』によると、蒲刈は本来「竈所(かまがり)」であるという。万葉集時代に妹所(いもかり)と呼ばれていたが時代が下ると竈所に変わり、そこから竈門あるいは竈戸とも呼ばれた康応元年1389年)『鹿苑院義満厳島詣記』には「かまかり」として、『海東諸国紀』には「竈戸」、安永6年1777年)『和訓栞』では「かまど關」、が出てくる。 三之瀬尾道鞆の浦と共に中世には港として機能していたと考えられている。応永27年1420年宋希璟老松堂日本行録』によると、三之瀬には海賊いわゆる水軍)が海関つまり航海上の関所設け、彼らは水先人として関銭徴収していたこと、そして彼らに従わなかった場合金品すべて奪われていたという。ただ、これ以外の江戸時代以前の港の様子がわかる資料はほぼない。 日高庄は平安時代末期から興福寺荘園であったが、室町時代末期から南北朝時代初期にこの地に進出してきた多賀谷氏掌握するうになる多賀谷氏戦国時代当初大内氏、のちに毛利氏水軍として活躍した

※この「蒲刈」の解説は、「三之瀬」の解説の一部です。
「蒲刈」を含む「三之瀬」の記事については、「三之瀬」の概要を参照ください。

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