明治陸軍時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:52 UTC 版)
戊辰戦争の敗戦の後は謹慎生活を送り、しばらく世間から離れて過ごしていたが、士族の反乱が相次いで起きると指揮能力を評価され、請われて明治陸軍入りする。西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮。日清戦争では陸軍少将で歩兵第10旅団長。その後、陸軍大学校長事務取扱、台湾総督府軍務局長。 日露戦争では陸軍中将として第8師団を率い出征する。黒溝台会戦では、ロシア軍の冬季大規模攻撃を受けた日本軍左翼の重要拠点である黒溝台を救援に向かう。数倍のロシア軍との戦闘は激烈を極め、日本側も増援する中、立見は師団兵力の半数を失いながらも黒溝台を回復し、会戦はロシア軍の退却で終結した。 これらの功績により、旧幕府軍出身者ながら日露戦争終結の翌1906年に陸軍大将に昇進。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}薩長出身の将軍たちも、戊辰戦争時の苦い経験から立見の前では頭が上がらないことが多く、特に山縣有朋は北越戦争の際、何度も煮え湯を飲まされていることから、生涯避けていたという話もある[要出典]。しかし大将昇進直後に体調を崩して病気休職となり、それから間もない翌1907年3月に61歳で死去した。
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