荒神口通の下宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:00 UTC 版)
数か月間の実家での謹慎生活の後、1923年(大正12年)4月に京都市上京区北白川西町(現・左京区)の澤田三五郎方の下宿に戻った基次郎は、三高での2度目の3年生の新学期を迎えた。未払いが溜っていた下宿の家賃代は兄・謙一が母から金を預かり、すでに支払いを済ませてあった。 その後5月頃に上京区寺町荒神口下ル松蔭町(京都御所の東)の梶川方に下宿を変えた基次郎は、この頃に習作の「母親」を書いた。この梶川方の粗壁で紅殻格子の古びた家の下宿生活の様子は習作「貧しい生活より」(1924年)に描かれており、それが元になって、二階の四畳半の部屋から見た風景が『ある心の風景』の第1章に生かされている。 作中では散らかった万年床の部屋として描いているが、よく遊びに行った浅見篤によると、意外にきちっと片づいていたという。
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