荒神山城築城と対毛利戦線
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「花房職秀」の記事における「荒神山城築城と対毛利戦線」の解説
元亀元年(1570年)10月、美作国の奉公衆草苅景継は足利義昭側近の上野信恵から、浦上宗景の牽制を命じられている。 元亀2、3年頃(1571、1572年頃)、職秀は美作国荒神山城を築城し在城した。近くの肥田左馬助・高橋四郎兵衛の拠る篠山城を攻め落とし、嵯峨山城も攻め取った。 次に院庄の城を攻め北方の神戸へと追撃、古川城を攻略した。元亀2年(1571年)4月のこととされる院庄の合戦において杉山宗三郎為国を討ち取り戦死した難波孫左衛門尉の跡目に関する措置を職秀が苔口宗十郎利長に命じている。草苅氏の持つ日詰城の出城である祝山城、枡形城、利元城の3城を次々落城させ、日詰城の相城を構え加番を籠めた。 次に久田の西屋城を落城させ苔口宗十郎を大将に兵を籠め、伯耆国への連絡路を確保した。元亀2年(1571年)6月には吉川元春が大山寺救護院を討伐するため伯耆国へ入った。尼子再興軍の亀井幸盛は大山寺支援のため末石城へ出陣し、宗景の軍6千とともに後巻きにする戦略を立てた。元春はこの動きを察知し、末石城を包囲し8月頃に亀井幸盛は元春に降伏、逃亡し、美作国へ落ち延びた。 浦上・宇喜多勢は備中国北部へも進出し元亀2年(1571年)3月以前に佐井田城を攻略していた。宗景は佐井田城を普請し、庄氏残党に守らせた。敷名元範を将とする備後勢が到着し、戦局が好転した毛利勢は備中国北部へ調略を進めた。三村元親は佐井田城を包囲するが、救援に現れた浦上・宇喜多・伊賀久隆を中核とする備前・美作勢と佐井田城下で9月4日に合戦が起きた。職秀は三村親成の家来山もとと槍を交わし高名を挙げた。三村勢は敗走し、三村親成が負傷、庄元資が前哨戦あるいはこの合戦で討死するなど大損害を被った。 職秀はその後、美作国月田城を武略により攻め取った。 元亀2年(1571年)11月には小早川隆景による備中国南部での反攻が始まり、元亀3年(1572年)には将軍足利義昭の仲裁により大友・浦上・毛利氏の和睦交渉が始まった。9月には毛利輝元本隊が備中国へ出陣した。そして10月に芸備和平が結ばれた。この和睦により佐井田城など備中国諸城が毛利方へ明け渡された。 天正5年(1577年)からは赤松氏・浦上氏と交戦、天正7年(1579年)に主君・宇喜多直家の命令で美作の後藤勝基の三星城を攻め、これを滅ぼした。その後の宇喜多氏は織田信長、豊臣秀吉に従属する。 文禄4年(1595年)、秀家に対して長船綱直を重用することを諫言したことで秀家の怒りを買い殺されそうになるが、秀吉の仲介によって一命は助けられ、徳川家康の斡旋もあって、常陸国の佐竹義宣に預けられた。この出来事は慶長4年(1599年)の宇喜多氏のお家騒動である「宇喜多騒動」の遠因となったとも言われている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して活躍し、備中国高松において8220石の所領を与えられて、旗本寄合に列する。なお、関ヶ原の戦いで所領を失い慶長11年(1606年)に八丈島へ流罪となった旧主・秀家に対して、職秀は毎年20俵の米を送っていたとされる。 慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂の陣にも子らと参加し、老骨に鞭打って輿に乗りながら采配を執ったとされるがこの時には加増はなかった。 元和3年(1617年)2月11日、死去。享年69。墓所は職秀が花房家の菩提寺として建立した岡山県岡山市北区高松にある日蓮宗の寺院・高松山妙玄寺。職秀の死去により、嫡男の職則が家督と所領を継いだ。 なお、職秀の次男は初めは出家し池上本門寺の僧となっていたが家康の命で還俗し、慶長4年(1599年)には徳川四天王の一人である榊原康政の養子となって、榊原職直と名乗った。これは、康政の側室が花房氏であり、宇喜多騒動の際に康政が調停役を務めた縁によるものであろうと推測されている。また、実父・職秀が死去し、実兄の職則が家督と所領を継いだ際に、職則は8220石の所領の内から1000石を職直に分与したことにより、職直は旗本として独立して取り立てられ、後に長崎奉行などを勤めた。
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