荒神橋事件と退寮処分問題とは? わかりやすく解説

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荒神橋事件と退寮処分問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)

京都大学吉田寮」の記事における「荒神橋事件と退寮処分問題」の解説

荒神橋事件」を参照 1945年9月文部省学校報国団を解体して戦前校友会組織再編するよう各大学指示し京都大学学校報国組織同学会」を学生主体組織改組した。新たな同学会は京都大学における学生運動中心となり、レッドパージ朝鮮戦争講和問題学費値上げなどの問題背景大学当局との対立深めた1951年同学会は京大天皇事件責任問われ解散させられ1953年再建された。同年9月同学委員長全学連委員長就任すると、全学連は「アメリカ占領下破壊され学園復興闘争進める」目的で「全日本学園復興会議」を11月京都大学立命館大学同志社大学開催することを決定した。しかし京大では、会場予定されていた法経一番教室使用服部峻治郎総長認めず抗議する学生警官隊導入して排除し負傷者40名を出したため、始まる前から極めて険悪な雰囲気漂っていた。11月8日全日本学園復興会議第1日目同志社大学明徳館にて開催され全国から相当数学生集まった。寮文科会では寮自治や生活の問題等が討論され全国連合結成準備会が発足した。第4日目11月11日立命館大学戦没学生祈念のためのわだつみ像本郷新製作)が到着し立命大生を中心とする歓迎デモ隊市中行進していた。一方京大では、150名の学生法経一番教室に関する集会時計台の下で行っていたが、学園復興会議集会合流するため京大出発した学生近衛通を西に出て鴨川けられた荒神橋経て河原町通抜けようとした。しかし4時45分学生先頭中央わたった時、京都市警察警官20名が学生隊列不法デモみなして実力阻止しかかった警官隊学生の上もみ合いになり、老朽化した木製欄干にもたれかかった途端10メートル余りにわたり欄干壊れて10数名が約5メートル下の河原転落重軽傷負った残り学生立命館大に一旦向かい学園復興会議参加者合流したのち市警本部抗議行ったが、約200名の警官隊強制排除され警棒殴打され70名が重軽傷負った少なくない負傷者寄宿舎逃げ込み、舎生は警察の手入れ警戒して徹夜守り固めた服部総長大勢学生負傷したことには一切言及せず、12月1日学園復興会議会場問題に関して同学総務部中央執行委員松浦玲放学、他の五学生無期停学等の処分付すと、健康上の理由辞任した。 そして松浦寄宿舎の舎生であった。舎生有志は直ち会合し、各学部ゼミ教室反対運動各自立ち上げること、ビラその他の手段全学全市民訴えること等を申し合わせた6日には舎生大会開かれ、六学生の処分撤回要求すること、松浦引き続き在舎させること、全学スト呼びかけること、「斗争委員会」を結成することが決議された。「処分撤回斗争」は全学拡大し宇治吉田分校文学部国史学科、理・経・法・農・文・医の各学部無期限スト入った12日には全学学生大会開かれスト体制強化し処分撤回まで戦うことが決議された。新任瀧川幸辰総長は、評議会処分再審査提案すること、放学者が復学した前例詳細不明)を考慮すること、ストライキ実行者処分しないことを同学会に確約し同学会は16日スト中止した。だが松浦放学処分は覆らず、復学もできなかった。翌1954年厚生課長寄宿舎学籍のない松浦を退舎させるよう圧力をかけ始めた寄宿舎大学当局要求最初拒否していたものの、瀧川総長が「松浦出さない様な寮の公募掲示認めず、又そのような寮は不必要である」として寄宿舎入舎希望者の公募掲示拒否したため、4月11日やむを得ず舎生大会開いて松浦の退舎を決議した一方次の事項決議された。「我々は今後自治守り今回如き卑劣な態度大学当局が再び出ないことを大学当局申し出る。我々は止むを得ず今回松浦君の退寮認めたのであつて、六学生の処分撤回あらゆる方法努力するこのため斗争委員会強化する。そして我々は学内民主化のために戦う」。その後寄宿舎松浦大学相手取って起こした処分撤回求め行政訴訟支援し、ある舎生が松浦を「外来者」として長期宿泊させることを黙認した。だが1955年松浦裁判中自身住所問われて「吉田京大寄宿舎」と答え松浦宿泊大学当局の知るところとなった11月厚生課長寄宿舎に対して松浦宿泊させた舎生を退舎させ、外来者の長期宿泊厚生課長許可を必要とするよう舎内規則「実行箇条」を変更するよう迫った抵抗して自治権剥奪されるのを恐れた寄宿舎大学当局屈服し当該寮生の「自発的退舎」と実行箇条変更決定した従来、舎生の退舎と外来者の宿泊許可総務委員権限であったので、多くの舎生はこの出来事寄宿舎自治後退捉えた。 (昭和中期存在した)寮史編さん委員会一連の事件について次の感想残した。 「総務日誌読んでいる内に気づいたことは、寮の自治というものは、外部から圧力加わって初めて、擁護だ、獲得だとあわてていたのでは、守り切れるものではない。常に圧力予想し将来起り得ることを正しくつかんで、がつちりと固めなければならないということである。現在の寄宿舎規定に関しても、徹底的に斗ってゆかなければ、必ず二十八~三十年と同じ失敗繰り返すだろう。寮の自治を、自分自身のものとして、真剣に考える時だと思う」

※この「荒神橋事件と退寮処分問題」の解説は、「京都大学吉田寮」の解説の一部です。
「荒神橋事件と退寮処分問題」を含む「京都大学吉田寮」の記事については、「京都大学吉田寮」の概要を参照ください。

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