荒神橋事件と退寮処分問題
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「京都大学吉田寮」の記事における「荒神橋事件と退寮処分問題」の解説
「荒神橋事件」を参照 1945年9月、文部省は学校報国団を解体して戦前の校友会組織へ再編するよう各大学に指示し、京都大学は学校報国団組織「同学会」を学生主体の組織に改組した。新たな同学会は京都大学における学生運動の中心となり、レッドパージ、朝鮮戦争、講和問題、学費の値上げなどの問題を背景に大学当局との対立を深めた。 1951年、同学会は京大天皇事件の責任を問われて解散させられ、1953年に再建された。同年9月、同学会委員長が全学連委員長に就任すると、全学連は「アメリカ占領下で破壊された学園の復興闘争を進める」目的で「全日本学園復興会議」を11月に京都大学、立命館大学、同志社大学で開催することを決定した。しかし京大では、会場に予定されていた法経一番教室の使用を服部峻治郎総長が認めず、抗議する学生を警官隊を導入して排除し負傷者40名を出したため、始まる前から極めて険悪な雰囲気が漂っていた。11月8日、全日本学園復興会議の第1日目が同志社大学明徳館にて開催され、全国から相当数の学生が集まった。寮文科会では寮自治や生活の問題等が討論され、全国寮連合結成準備会が発足した。第4日目の11月11日、立命館大学に戦没学生祈念のためのわだつみ像(本郷新製作)が到着し、立命大生を中心とする歓迎デモ隊が市中を行進していた。一方、京大では、150名の学生が法経一番教室に関する集会を時計台の下で行っていたが、学園復興会議の集会に合流するため京大を出発した。学生は近衛通を西に出て、鴨川に架けられた荒神橋を経て河原町通に抜けようとした。しかし4時45分、学生の先頭が橋の中央をわたった時、京都市警察の警官約20名が学生の隊列を不法デモとみなして実力で阻止しにかかった。警官隊と学生は橋の上でもみ合いになり、老朽化した木製欄干にもたれかかった途端、10メートル余りにわたり欄干が壊れて10数名が約5メートル下の河原に転落、重軽傷を負った。残りの学生は立命館大に一旦向かい、学園復興会議の参加者と合流したのち市警本部に抗議に行ったが、約200名の警官隊に強制排除され、警棒で殴打されて70名が重軽傷を負った。少なくない負傷者が寄宿舎に逃げ込み、舎生は警察の手入れを警戒して徹夜で守りを固めた。服部総長は大勢の学生が負傷したことには一切言及せず、12月1日に学園復興会議の会場問題に関して同学会総務部中央執行委員の松浦玲を放学、他の五学生を無期停学等の処分に付すと、健康上の理由で辞任した。 そして松浦は寄宿舎の舎生であった。舎生有志は直ちに会合し、各学部・ゼミ・教室で反対運動を各自立ち上げること、ビラその他の手段で全学全市民に訴えること等を申し合わせた。6日には舎生大会が開かれ、六学生の処分の撤回を要求すること、松浦を引き続き在舎させること、全学ストを呼びかけること、「斗争委員会」を結成することが決議された。「処分撤回斗争」は全学に拡大し、宇治、吉田分校、文学部国史学科、理・経・法・農・文・医の各学部が無期限ストに入った。12日には全学学生大会が開かれ、スト体制を強化し処分撤回まで戦うことが決議された。新任の瀧川幸辰総長は、評議会に処分再審査を提案すること、放学者が復学した前例(詳細不明)を考慮すること、ストライキの実行者を処分しないことを同学会に確約し、同学会は16日にストを中止した。だが松浦の放学処分は覆らず、復学もできなかった。翌1954年、厚生課長は寄宿舎に学籍のない松浦を退舎させるよう圧力をかけ始めた。寄宿舎は大学当局の要求を最初拒否していたものの、瀧川総長が「松浦を出さない様な寮の公募掲示は認めず、又そのような寮は不必要である」として寄宿舎入舎希望者の公募掲示を拒否したため、4月11日、やむを得ず舎生大会を開いて松浦の退舎を決議した。一方、次の事項も決議された。「我々は今後寮自治を守り、今回の如き卑劣な態度に大学当局が再び出ないことを大学当局に申し出る。我々は止むを得ず今回の松浦君の退寮を認めたのであつて、六学生の処分撤回にあらゆる方法で努力する。このため斗争委員会を強化する。そして我々は学内民主化のために戦う」。その後、寄宿舎は松浦が大学を相手取って起こした処分撤回を求める行政訴訟を支援し、ある舎生が松浦を「外来者」として長期宿泊させることを黙認した。だが1955年、松浦は裁判中に自身の住所を問われて「吉田京大寄宿舎」と答え、松浦の宿泊は大学当局の知るところとなった。11月、厚生課長は寄宿舎に対して、松浦を宿泊させた舎生を退舎させ、外来者の長期宿泊は厚生課長の許可を必要とするよう舎内規則「実行箇条」を変更するよう迫った。抵抗して自治権を剥奪されるのを恐れた寄宿舎は大学当局に屈服し、当該寮生の「自発的退舎」と実行箇条の変更を決定した。従来、舎生の退舎と外来者の宿泊の許可は総務委員の権限であったので、多くの舎生はこの出来事を寄宿舎自治の後退と捉えた。 (昭和中期に存在した)寮史編さん委員会は一連の事件について次の感想を残した。 「総務日誌を読んでいる内に気づいたことは、寮の自治というものは、外部から圧力が加わって初めて、擁護だ、獲得だとあわてていたのでは、守り切れるものではない。常に圧力を予想し、将来起り得ることを正しくつかんで、がつちりと固めなければならないということである。現在の寄宿舎規定に関しても、徹底的に斗ってゆかなければ、必ず二十八~三十年と同じ失敗を繰り返すだろう。寮の自治を、自分達自身のものとして、真剣に考える時だと思う」
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