山内神社とは? わかりやすく解説

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やまうち‐じんじゃ【山内神社】

読み方:やまうちじんじゃ

高知市鷹匠町にある神社祭神山内豊信山内豊範


やまのうち‐じんじゃ【山内神社】

読み方:やまのうちじんじゃ

やまうちじんじゃ


やまうちじんじゃ 【山内神社】

高知市鷹匠町にある旧別格官幣社山内豊信(容堂)と山内豊範祀る一八七一(明治四)年創建例祭一一月一〇日。

山内神社

読み方:ヤマウチジンジャ(yamauchijinja)

教団 単立

所在 高知県高知市

祭神 山内豊信 ほか


山内神社

読み方:ヤマノウチジンジャ(yamanouchijinja)

教団 神社本庁

所在 山口県玖珂郡美川町

祭神 国狭槌尊 ほか

神社名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

山内神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 21:33 UTC 版)

山内神社

拝殿
所在地 高知県高知市鷹匠町2-4-65
位置 北緯33度33分19.9秒 東経133度31分54.5秒 / 北緯33.555528度 東経133.531806度 / 33.555528; 133.531806座標: 北緯33度33分19.9秒 東経133度31分54.5秒 / 北緯33.555528度 東経133.531806度 / 33.555528; 133.531806
主祭神 土佐藩歴代藩主
社格 別格官幣社
創建 昭和10年(1935年
例祭 11月10日
地図
山内神社
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社務所、西神門

山内神社(やまうちじんじゃ)は、高知県高知市にある神社である。土佐藩初代藩主山内一豊同夫人、および土佐藩歴代藩主を祀る。旧社格別格官幣社で、現在は神社本庁などに属さない単立神社となっている。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

歴史

文化3年(1806年)、土佐藩10代藩主豊策により、初代藩主の一豊とその夫人の見性院(千代)、2代藩主忠義を祀るために高知城内に造営された藤並神社に始まる。当時、初代藩主を神として祀ることが各藩で行われていた。天保6年(1835年)、「藤並大明神」の神号が贈られた。

明治4年(1871年)、土佐藩最後(16代)の藩主で、初代藩知事となった豊範が、藤並神社の御旅所であった現在地に山内神社を創建し、3代忠豊から14代豊惇までの霊を祀った。翌明治5年(1872年)、山内神社は高知県庁に引き渡され、村社に列格した。

昭和7年(1933年)、15代豊信(容堂)・16代豊範の明治維新での功績を顕彰する神社を新たに造ることとなり、山内神社に祀られていた歴代藩主の霊を藤並神社に遷座し、新しい社殿を造営した。昭和10年(1935年)4月に竣工し、豊信・豊範を祀る「別格官幣社山内神社」として創建された。

昭和20年(1945年)、戦火により両神社とも焼失し、以降、仮宮で祭祀が行われていた。昭和45年(1970年)、社殿を再建して藤並神社を合祀し、土佐藩歴代のすべての藩主を祀る神社となった。平成2年(1990年)、高知城内にあった熊野・春日・住吉の三社を境内に遷座した。

周辺

関連図書

関連項目

外部リンク


山内神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 18:14 UTC 版)

朝日八幡神社」の記事における「山内神社」の解説

朝日八幡神社南東隣に鎮座している山内神社は、享保大飢饉功労者である山内右衛門久元を祀る神社である。神紋九曜山内右衛門は、土佐藩初代藩主山内一豊の甥(弟の子)にあたる山内久忠の曾孫である。久忠のとき松山藩来て4代目家督継ぎ忠節潔白に励み正徳4年1714年)に32歳で目付役になるほどの至誠忠実潔白奉仕の心を持っていたと伝えられる享保17年1732年)の享保の大飢饉松山多く餓死者(餓死者の数3489人)が出たとき、江戸詰めであった松山藩松平定英は、幕府から施政不行き届き謹慎命じられた。主君の命により目付役の山内右衛門は、松山帰して飢饉実情報告したが、翌享保18年1733年5月松平定英心労重なり江戸藩邸逝去した。その後嗣子松平定喬藩主継承した際に家老となった奥平久兵衛一派により、山内右衛門役儀解かれ閉門とされ、「悪心をもって藩主の心を惑わした」という罪名で、12月5日味酒村長久寺で切腹命じられた。しかし、山内右衛門このような罪名該当する事実はなく、家臣達の政権争い犠牲になったものと考えられる。約8年無実とわかり、むしろ忠臣武士の手本として藩に認められることになる。 文化11年1814年)、藩主松平定通山内右衛門忠義称えて山内神社を建てた。奥平久兵衛一派その後没落し、藩から派遣され目付の手によって、流布されていた越智郡生名島殺害された。一方山内右衛門の子孫は藩から40石が下され馬廻組として復帰した明治43年1910年6月7日神饌幣帛料供進神社となった昭和20年1945年)、戦災により社殿焼失社殿焼失の後は小さな祠で祀られていたが、平成2年1990年11月再建された。 除難の神として、4月23日大祭が行われている。 境内社として木野山神社祀られている(山内神社拝殿社名額が掲げられている)。

※この「山内神社」の解説は、「朝日八幡神社」の解説の一部です。
「山内神社」を含む「朝日八幡神社」の記事については、「朝日八幡神社」の概要を参照ください。

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