稲葉久通とは? わかりやすく解説

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稲葉久通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 03:36 UTC 版)

 
稲葉久通
稲葉久通像(臼杵市・月桂寺所蔵)
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保14年2月7日1843年3月7日
死没 明治26年(1893年7月23日
改名 伊織、久通
戒名 本徳院殿一有宗隣大居士
官位 従五位下、従五位上、右京亮従四位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
豊後臼杵藩
氏族 岡野氏稲葉氏
父母 父:岡野知英、母:山内容堂
養父:稲葉観通
正室:清徳院(稲葉通孚の娘)
順通、通暉、正顕、通方、壽子ら
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稲葉 久通(いなば ひさみち)は、豊後国臼杵藩第15代(最後)の藩主。旗本・岡野知英の五男。母は山内容堂(豊信)の娘と言われている(養母との説もある)。

経歴

文久2年(1862年)に先代藩主・観通が若死にしたため、観通の姉妹(11代藩主・雍通の孫娘)を娶って跡を継いだ。幕末期の動乱の中では、土佐藩山内容堂と縁戚にあったことから佐幕派の立場を貫き、隣藩の岡藩から尊皇攘夷運動の誘いをもちかけられたときも、これを拒絶した。慶応3年(1867年)10月、朝廷から上洛を命じられたときもこれになかなか応じようとはせず、翌年の3月20日になってようやく上洛しているほどである。ちなみにこれは、豊後の諸藩の中で最も遅い上洛であった。

ただし、版籍奉還は豊後の諸藩に先駆けて行ない、藩知事に任じられた。その後、久通は藩政改革を断行したが、明治4年(1871年)の廃藩置県により藩知事を免官される。その後の明治5年(1872年)に家臣の荘田平五郎の紹介の下、慶應義塾に入学。明治26年(1893年)7月23日、51歳で東京にて死去した。

栄典

家族

父母

  • 稲葉多計子、清徳院 ー 稲葉通孚の娘[2]

子女

  • 稲葉順通[注釈 1](長男)
  • 稲葉通暉(次男)
  • 稲葉正顕(四男)[4]
  • 稲葉通方(五男)
  • 稲葉壽子 ー 子爵相良頼綱夫人後に湯浅温夫人

脚注

  1. ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
  2. ^ a b c 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929, p79
  3. ^ 【昭和天皇の87年】幼少期から抜群だった記憶力 弟思いの性格も産経新聞、2018.8.11
  4. ^ 稲葉正善の養子。

注釈

  1. ^ 岳父は酒井忠宝[2]孫は稲葉直通 - 岳父に西郷従徳[2]。幼少の頃、迪宮(昭和天皇)のお相手を務めた。[3]

参考文献

  • 『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年。
  • 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年。ISBN 4816912843
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
臼杵稲葉家初代
1884年 - 1893年
次代
稲葉順通



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