三菱入社まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:05 UTC 版)
弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、百石の世禄を食む臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。幼名を允徳と称した。藩校の学古館で抜群の秀才だった荘田は慶応3年(1867年)、19歳で藩より選抜され江戸の青地信敬(あおちしんけい)の塾に入門。その後、慶応4年(1868年)にはじめて福澤諭吉を訪ね、藩命により薩摩藩の開成所および洋学局に、宮川玄水と共に派遣され明治2年(1869年)に薩摩藩洋学局講師となる。 明治3年(1870年)再度の藩命により、23歳で再び上京し念願の慶應義塾五等試験に合格し、入塾した。明治5年(1872年)には慶應義塾の教員となり、慶應義塾大阪分校に派遣され、翌年に臼杵藩学取締を命ぜられ、藩主・稲葉久通を慶應義塾にて教授した。明治7年(1874年)には慶應義塾京都分校で教え、和魂洋才の「学問・儒学と算盤(そろばん)の両刀使い」ぶりを十分に発揮した。 明治7年(1874年)、東京府三田に戻り、再び慶應義塾で教鞭(きょうべん)を執ることになった。
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