薩摩が薩土密約の履行を促すとは? わかりやすく解説

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薩摩が薩土密約の履行を促す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「薩摩が薩土密約の履行を促す」の解説

28日(1868年1月22日)同日土佐藩士山田喜久馬吉松速之助らが伏見警固につくと、西郷隆盛土佐藩士谷干城薩長芸の三藩へは既に討幕勅命下ったことを示し薩土密約に基づき乾退助大将として国許土佐藩兵を上洛させ参戦」させるよう促した。谷は大仏智積院土州本陣戻って執政山内隼人深尾茂延、深尾成質の弟)に報告慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷はこれを伝えるため、下横目森脇唯一郎を伴って京を出立し早馬土佐へ向う薩州屋敷焼打事件一報接し西郷は「これで討幕名分は立ち申した」と喜び急ぎ土佐藩谷干城呼んで遂に戦端開かれましたぞ。今こそ貴藩との五月約束薩土討幕の密約)を履行して頂く時が参り申した乾退助殿を将として速やかに出兵の事を頼みます」と薩土討幕の密約に基づき土佐藩に兵の出動促した。 — 渋沢栄一著『徳川慶喜公傳(4)』267-268頁 谷は大仏智積院土州本陣戻って執政山内隼人深尾茂延、深尾成質の弟)に報告慶応4年1月1日(太陽暦1月25日)、谷は下横目森脇唯一郎を伴って京を出立1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見戦闘始まり1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治北村重頼二川元助らは藩命待たず薩土密約履行して参戦その後錦の御旗翻る1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐到着1月9日(太陽暦2月2日)、乾退助の失脚解かれ1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質総督乾退助大隊司令として迅衝隊編成し土佐出陣戊辰戦争参戦した

※この「薩摩が薩土密約の履行を促す」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「薩摩が薩土密約の履行を促す」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。

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