薩摩が薩土密約の履行を促す
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「薩摩が薩土密約の履行を促す」の解説
28日(1868年1月22日)同日、土佐藩士山田喜久馬、吉松速之助らが伏見の警固につくと、西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し「薩土密約に基づき、乾退助を大将として国許の土佐藩兵を上洛させ参戦」させるよう促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷はこれを伝えるため、下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立し早馬で土佐へ向う。 薩州屋敷焼打事件の一報に接し、西郷は「これで討幕の名分は立ち申した」と喜び、急ぎ土佐藩の谷干城を呼んで「遂に戦端は開かれましたぞ。今こそ貴藩との五月の約束(薩土討幕の密約)を履行して頂く時が参り申した。乾退助殿を将として速やかに出兵の事を頼みます」と薩土討幕の密約に基づき、土佐藩に兵の出動を促した。 — 渋沢栄一著『徳川慶喜公傳(4)』267-268頁 谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(太陽暦1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。その後、錦の御旗が翻る。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月9日(太陽暦2月2日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した。
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