薩摩との関係の隠蔽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「薩摩との関係の隠蔽」の解説
薩摩藩の琉球侵攻後、琉球王国は中国(明→清)に冊封されながら、薩摩藩、そして江戸幕府の支配下に入るという、いわば日本と中国の二重支配下に置かれるようになった。同一地域に二重の支配構造が並立する場合、どうしても相互に矛盾が出てくるものであるが、琉球の場合はかなり長期間にわたってこの二重支配の構造が比較的安定した形で維持された。その要因のひとつとしてまず17世紀後半から19世紀前半頃にかけて、東アジア全体が比較的安定していた点が挙げられる。また江戸幕府は清に対して脅威を抱いており衝突を望まなかった点。そして琉球が日本と中国との二重支配を前提として、それぞれの支配と自らの国家体制のバランスを取りながら運営していくシステムを構築した点が挙げられる。 琉球王国では日本と中国との二重支配間の矛盾を回避する政策として、清に対して日本との関係を隠蔽する政策が取られていた。この政策は薩摩藩の琉球侵攻直後から行われたものではない。前述のように明に対しては脅威を感じなかった江戸幕府も、新興の清に対しては脅威を感じており、清との衝突を避けるべく取られた政策である。この政策は薩摩藩側からの指示で開始したとされており、1649年には琉球側に対日関係の隠蔽の指示が出されていたことが確認されている。そしてもともとは薩摩藩の指示によって始まった日本との関係の隠蔽であるが、琉球側も同意して自ら隠蔽策を強化していく。 隠蔽政策は3つの柱で成り立っていた。まずは対日関係を隠蔽するという隠蔽政策そのもの。そして1609年の琉球侵攻後、琉球王国領から薩摩藩領となった奄美諸島をこれまで通り琉球王国領であると清側に認識させること。そしてやむなく清側に日本に関して触れる場合には、日本を「宝島」と称することである。宝島とは具体的にはトカラ列島のことを指し、琉球侵攻以前は琉球王国と薩摩藩との緩衝地帯であった。琉球側は清に対して、かつて琉球は日本のみならず朝鮮、東南アジア諸国と幅広く交易を行い、狭く痩せた土地しかない琉球では賄えない産物を得てきた。しかし諸外国との交易が途絶えてしまう中、日本の属島であるトカラ列島の商人が来琉して不足している産物をもたらしてくれるようになったので、琉球の人々はトカラのことを宝島と呼んでいると説明するようになった。 当時、対日関係の隠蔽が問題となるのは、後述の冊封使来琉の場合と、琉球人が清に漂着した場合、逆に清の住民が琉球に漂着した場合となる。琉球王国では琉球人の清への漂着時、逆に清からの漂流民に関するマニュアルが作成された。もちろん来琉する薩摩藩の関係者が海難事故に遭って清に漂着することも考えられるわけで、その場合のマニュアルも想定される事態に即して策定された。例えば薩摩藩側の船に少数の琉球人が乗り合わせた船が清に漂着した場合には、琉球人を日本人と化するようマニュアル化されており、実際に漂着時に月代を剃り、日本名を名乗って清側の当局者に対応したケースが確認されている。 一方、中国または朝鮮から琉球王国、そして建前上は琉球王国領とされた奄美諸島に漂着した場合には、基本的には乗って来た船が修理をすれば自力航行が可能であれば修理の上で帰国させ、無理である場合には公的ルートで送還された。1609年の琉球侵攻後、1684年の清の海禁解除までは琉球は漂着民を長崎へ回送し、長崎から帰国させるという江戸幕府のシステムに則って処理されていた。これは海禁政策のもとでは琉球への漂着民は違法に海に乗り出した人々であり、本国送還されたところで漂着の事実を話さないことが期待できたためであった。ところが海禁が解除されてしまうと合法的な漂着民が琉球に流れつくようになる。1684年には清側から琉球漂着民を保護、送還するよう清側から命じられたこともあって、琉球側は薩摩藩、江戸幕府に諮ることなく独断で進貢時や解送使を仕立てて清へ送還するようにした。薩摩側は琉球の独断による決定を厳しく指弾したものの、幕府ともども追認せざるを得なかった。なぜなら海禁が解除された後も長崎回送に固執すれば琉日関係の隠蔽は不可能であることは明らかなためである。ただしキリシタンの疑いがある漂着民や、南蛮船はこれまで通り長崎回航とされた。 琉球王国では領内に漂着民に関するマニュアルが周知、徹底されていた。実務的には漂着時には漂着民を収容隔離して住民との接触を最小限に抑えるとともに、日本を連想させるあらゆる事物の禁令が厳守された。また奄美諸島への漂着時に、日本船で琉球まで回航される場合には、船籍は宝島籍、乗組員は宝人と詐称することになっていて、奄美諸島内でも奄美用の漂着民対応マニュアルが周知、徹底された。また漂着民にキリシタンの疑いが無いか、漂着民相手に琉球側が密貿易を行っていないか等、薩摩藩の役人が見分を行うように規定されていたが、その見分も薩摩側が監視している事実を漂流民に悟られないように工夫された。 中国周辺の国家が冊封を受け入れた場合、冊封国に対して政策面の干渉は行わないのが慣例であった。清もまたこの慣例に従い、琉球への干渉は差し控えられていた。そのような中で実際問題として多くの冊封使が数カ月間の在琉期間中に日本の影を感じ取りながら、琉球との冊封関係が保たれている中での事実関係追及は不要であると、あえて深入りしようとはしなかった。 そして清に対する対日関係隠蔽政策は単に琉球王国の外交政策に留まらず、王国自体の基本理念の一つとして機能するようになる。対日関係の隠蔽については薩摩側を始めとした日本側からの協力もあった。隠蔽政策は清側には対日関係の隠蔽として働いたが、薩摩藩を始めとした日本側に対しては琉球王国の対中国関係への干渉を阻む障壁として作用することになる。その結果、琉球王国にとって二重の支配構造間における衝突のリスクを下げるとともに、中国側、日本側からも干渉され難い独自の裁量権が発揮できる場が形成され、ある程度琉球の自主性が確保されることに繋がった。しかしこの政策は琉球、中国、日本の三者関係を安定化させるには効果的であったが、19世紀半ば以降に問題となっていく欧米諸国との関係の調整、対応には多くの困難が生じた。
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