薩摩の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:52 UTC 版)
秀吉は4月25日に肥後佐敷(熊本県葦北郡芦北町)、26日に肥後水俣(熊本県水俣市)と進み、4月27日には島津方の予想を上回る速さで秀吉が薩摩国内に進軍すると、出水城(出水市)の城主島津忠辰、宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の城主島津忠長らが降伏した。先鋒の小西行長、脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明は海路から24日出水に、25日には川内(鹿児島県薩摩川内市)に入っていた。秀吉は、薩摩の浄土真宗勢力を利用するために本願寺(当時は摂津国天満に本拠を移転)の顕如をともなっていた。これにより獅子島(鹿児島県出水郡長島町)の一向門徒の協力を得て、島津方の意表を突く迅速さで出水・川内の地に達したのである。4月28日、小西・脇坂・九鬼勢は平佐城(薩摩川内市平佐町)に攻撃を仕掛けたが、ここで城主桂忠詮の反撃にあった(平佐城の戦い)。このとき、平佐城の井穴口を守る原田帯刀が寄手大将小出大隅守の弟九鬼八郎を弓で射とめ、また、城内の女たちや子どもたちも懸命にはたらくなど善戦して、双方、相当数の犠牲者を出した。これが島津方の最後の抵抗となった。
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