薩摩の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:32 UTC 版)
「琉球侵攻」も参照 第二尚氏第7代尚寧の1609年3月4日、樺山久高ら薩摩軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日に奄美大島へ上陸した。大島は薩摩に非常に協力的で、物資補給も行った。この時点で琉球王府は天龍寺長老を大島に派遣して降伏しようとしたが、何故か薩摩軍と接触せず、失敗した。3月17日に徳之島に13艘の先発隊が到達、一部で戦闘があったが速やかに制圧された。沖永良部島と次々に攻め落とし、3月26日、沖縄本島北部の運天港に上陸。27日、空になっていた今帰仁城下を焼く。またこの日、和睦全権として西来院菊隠が今帰仁に到着、降伏を申し出た。これを受け、那覇で和睦の談合を行う事が決まる。 その後首里から和睦の使者の行違いや那覇港の封鎖など処理を誤り、また樺山は内心、琉球を信用しておらず、薩摩軍主力を陸路あるいは渡具知浜から上陸させて首里に向けて進軍、浦添城を攻め落とした。29日、海路で大湾に移動。4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせる一方、主力は首里へ迫り、午後2時頃到着した。ここまで薩摩軍に対し琉球軍は4000名の兵を召集し対抗したが、少数が会戦しただけで惨敗し、後は散発的な戦闘が起きただけであった。 その後ようやく那覇にて和睦の議が成り調印が行われたが、首里では、薩摩軍の侵入によって混乱が生じた。これに対し、薩摩軍軍使・市来織部と村尾笑栖が首里に移動して尽力し沈静化。摂政・三司官を人質として引き渡すのと引き換えに、首里侵入軍は那覇に退去し戦闘は一応終息した。尚寧が和睦を正式に申し入れ、4月5日に首里城が開城、軍が接収。4月15日には尚寧と共に鹿児島に出発。 翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした(ただし表面上は琉球王国の支配領地とされていた)。 1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」などと述べた起請文への署名を強要され、これを拒んだ三司官のひとり謝名利山は斬首された。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、在番奉行を那覇に置き、琉球王国を間接支配するようになる。 以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。琉球王国は附庸国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。薩摩藩と明・清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。薩摩藩は、江戸へ琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させた。
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