薩摩での忠久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:00 UTC 版)
『山田聖栄自記』及び、島津国史(江戸後期成立)によれば、地頭となった忠久は、文治2年(1186年)に薩摩国山門院(鹿児島県出水市の旧野田町を中心に旧高尾野町、出水の針原、六月田の一部、荘、江内、阿久根の脇本)の木牟礼城に入り、その後、日向国島津院(宮崎県都城市)の堀之内御所に移ったと伝えられている。この他に、三国名勝図会(江戸後期成立)では、建久7年(1196年)に、山門院から島津院の祝吉御所に入り、その後、堀之内御所に移ったとする伝承もある。しかし、史実としては忠久が山門院、島津院いずれにも移住したとは認められず、伝承にすぎないという指摘がされている。 出水市教育委員会による木牟礼城址の解説板では、文治2年(1186年)島津忠久が薩摩・大隅・日向三国の地頭職に任ぜられた後、家臣の本田貞親を任地に下向させて、三国の情勢を探らせた事が記されている。山門院の豪族を平らげて建久7年(1196年)貞親は山門院の木牟礼に城を築いて島津市三州支配の基礎を作ったという。 すなわち、忠久自身が木牟礼城に定住したことはないが、木牟礼城は薩摩国の守護所であり、ここに本田氏ら守護島津氏の家臣が常駐し守護勢力の拠点となり、5代貞久まで至るのである。 なお、木牟礼城址東南200メートルの付近は野田町の屋地という地名であるが、当時城郭内になっていたと伝えられ、城址内に竹林城址と伝えられている区画があり、本田貞親の居城であったという。 忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代目島津忠時も同様に鎌倉で没している。三代目島津久経が元寇を機に下向して以来、南九州への在地化が本格化し、四代目島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは五代目島津貞久以降である。碇山城(薩摩川内市)に貞久の守護所が置かれていたという。
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