薩摩による琉球における念仏禁止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 00:58 UTC 版)
「本願寺沖縄別院」の記事における「薩摩による琉球における念仏禁止」の解説
江戸時代、薩摩の支配を受けていた琉球でも浄土真宗の信仰が禁じられていた。1659年、薩摩は琉球に対し、キリシタン禁制とともに浄土真宗も禁制する旨の起請文を提出させた。 そのようななかで、琉球への浄土真宗伝播が確認されている最古の史料は、本願寺学林の第6代能化職であった越前平乗寺の功存が、1789年に琉球の尼講宛てに記した書状である。その書き出しに「宗祖知識の厚恩を祟重せらるゝによりて、遠国より年〃志しを運れ候事、随喜かきりなく覚候」とあり、琉球伝播は1789年より数年は遡ることになる。琉球の尼講というのは正式名を中山国尼講(ちゅうざんこくあまこう)といい、辻遊郭の遊女たちを中心に結成された信者の寄り合い組織のことで、その成立過程についてはよく分かっていない。 琉球では、1851年までに、前述の中山国尼講、中山国歓喜講、中山国御戸帳講、後述する中山国廿八日講が結成されていた。中山国尼講の取次ぎ寺は大阪の浄徳寺、中山国御戸帳講は筑前の重誓寺、中山国廿八日講は京都の正光寺であった。中山国歓喜講については不明であるが、これらの講社は薩摩の影響のない寺院によって護られてきたことがわかる。
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