薨去と国葬とは? わかりやすく解説

薨去と国葬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 09:20 UTC 版)

有栖川宮威仁親王」の記事における「薨去と国葬」の解説

1913年大正2年3月3日午前1時、少量喀血心悸亢進があったため、侍医鶴崎平三郎診察を受けるが、症状重篤であった。そこで岡田平太郎家令平山別当東京から伺候し、さらに董子大妃や慰子妃も相次いで舞子別邸に来著した同月8日に、小康状態になった6月10日再度発症し症状回復しないため、天皇から三浦謹之助派遣され、さらに中西太郎京都から参邸して治療あたった同月22日宮内大臣渡辺千秋伯爵派遣され有栖川宮家後継について内諭伝達した。威仁親王栽仁王を喪って以来、このことを憂慮していたため、心穏やかになったとされるまた、薨去数日前まで、孫娘喜久子笑顔愛でていた。 7月5日午後8時20分、危篤となる。7月6日大正天皇第三皇子宣仁親王に「高松宮」の称号与えられた。高松宮とは、有栖川宮旧称である。 同日一度帰京していた董子大妃が再び舞子別邸訪れた7月10日午前5時10分に舞子別邸発ち同日午後7時40分に、慰子妃・董子大妃とともに東京有栖川宮邸に帰邸した。大正天皇東園基愛子爵派遣して見舞った。そして午後8時20分、威仁親王薨去した。また、国葬とする勅令発された。 この間7月7日元帥府に列せられ、大勲位菊花章頸飾受勲した。 7月13日午後5時に斂棺の儀15日午前10時に賜誄の儀が執り行われた。7月17日動き下記の通り午前4時 - 前祭 午前6時 - 有栖川宮邸を出棺 午前8時10分 - 豊島岡墓地到着 午前8時50分 - 参列者が参列 午前9時50分 - 葬場の儀終了 以降儀式下記の通り7月17日 - 斂葬の儀 7月18日 - 舎祭、墓所7月19日 - 十日以降10日ごとに祭(神事が行われ、8月28日五十日祭、8月29日御霊代奉還の儀、そして10月16日百日祭をもって国葬終了したこうした中、祖父の死をまだ理解できない喜久子の中の祖父会いたいとせがむ姿は、人々涙を誘った 1915年大正4年11月10日大正天皇即位の礼京都御所執り行われた。天皇は威仁親王補導功績思い起こし12月6日勅使として侍従黒田長敬子爵派遣して御告祭執り行わせた。1925年大正14年)の結婚25年祝典の折にも、侍従恒太郎派遣して御告祭執り行わせた。 1917年大正6年)には威仁親王銅像建設動き起こり海軍元帥東郷平八郎伯爵海軍元帥井上良馨子爵海軍大臣加藤友三郎子爵らが発起人名を連ねた海軍内だけでなく広く一般から資金募り、また複数候補地から築地海軍参考館内の敷地選定された。そして1921年大正10年10月24日竣工した台座含めて20mに及ぶ巨大な施設で、除幕式には慰子妃の代理として外孫徳川慶光海軍兵学校在学中高松宮宣仁親王山階宮武彦王久邇宮妃俔子梨本宮伊都子皇族加え内閣総理大臣原敬、各大臣官民紳士列席した

※この「薨去と国葬」の解説は、「有栖川宮威仁親王」の解説の一部です。
「薨去と国葬」を含む「有栖川宮威仁親王」の記事については、「有栖川宮威仁親王」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「薨去と国葬」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「薨去と国葬」の関連用語

薨去と国葬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



薨去と国葬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの有栖川宮威仁親王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS