薨去と国葬
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1913年(大正2年)3月3日午前1時、少量の喀血と心悸亢進があったため、侍医の鶴崎平三郎の診察を受けるが、症状は重篤であった。そこで岡田平太郎家令や平山別当が東京から伺候し、さらに董子大妃や慰子妃も相次いで舞子別邸に来著した。同月8日に、小康状態になった。 6月10日、再度発症し、症状が回復しないため、天皇から三浦謹之助が派遣され、さらに中西亀太郎も京都から参邸して治療にあたった。同月22日、宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、有栖川宮家の後継について内諭を伝達した。威仁親王は栽仁王を喪って以来、このことを憂慮していたため、心穏やかになったとされる。また、薨去の数日前まで、孫娘喜久子の笑顔を愛でていた。 7月5日午後8時20分、危篤となる。7月6日、大正天皇の第三皇子宣仁親王に「高松宮」の称号が与えられた。高松宮とは、有栖川宮の旧称である。 同日、一度帰京していた董子大妃が再び舞子別邸を訪れた。7月10日午前5時10分に舞子別邸を発ち、同日午後7時40分に、慰子妃・董子大妃とともに東京の有栖川宮邸に帰邸した。大正天皇は東園基愛子爵を派遣して見舞った。そして午後8時20分、威仁親王は薨去した。また、国葬とする勅令が発された。 この間、7月7日に元帥府に列せられ、大勲位菊花章頸飾を受勲した。 7月13日午後5時に斂棺の儀、15日午前10時に賜誄の儀が執り行われた。7月17日の動きは下記の通り。 午前4時 - 棺前祭 午前6時 - 有栖川宮邸を出棺 午前8時10分 - 豊島岡墓地到着 午前8時50分 - 参列者が参列 午前9時50分 - 葬場の儀終了 以降の儀式は下記の通り。 7月17日 - 斂葬の儀 7月18日 - 権舎祭、墓所祭 7月19日 - 十日祭 以降、10日ごとに祭(神事)が行われ、8月28日の五十日祭、8月29日の御霊代奉還の儀、そして10月16日の百日祭をもって国葬が終了した。こうした中、祖父の死をまだ理解できない喜久子が棺の中の祖父に会いたいとせがむ姿は、人々の涙を誘った 1915年(大正4年)11月10日、大正天皇の即位の礼が京都御所で執り行われた。天皇は威仁親王の補導の功績を思い起こし、12月6日に勅使として侍従黒田長敬子爵を派遣して御告祭を執り行わせた。1925年(大正14年)の結婚25年祝典の折にも、侍従原恒太郎を派遣して御告祭を執り行わせた。 1917年(大正6年)には威仁親王の銅像建設の動きが起こり、海軍元帥東郷平八郎伯爵や海軍元帥井上良馨子爵、海軍大臣加藤友三郎子爵らが発起人に名を連ねた。海軍内だけでなく広く一般から資金を募り、また複数の候補地から築地の海軍参考館内の敷地が選定された。そして1921年(大正10年)10月24日に竣工した。台座を含めて20mに及ぶ巨大な施設で、除幕式には慰子妃の代理として外孫の徳川慶光、海軍兵学校在学中の高松宮宣仁親王と山階宮武彦王、久邇宮妃俔子、梨本宮妃伊都子の皇族に加え、内閣総理大臣原敬、各大臣、官民の紳士が列席した。
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