混乱と滅亡
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1818年10月19日、アワド太守ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーは「アワド王」(Padshah-e Awadh)を宣し、自らの名で貨幣を鋳造するようになった。翌1819年10月8日にはムガル帝国から正式に独立を宣言して、アワド王国となった。 しかし、当然ながらイギリスに従属する藩王国であることに変わりはなく、かねてからの莫大な駐留費の支払いから財政窮乏を招いていた。そのうえ、19世紀になると、藩王は贅沢三昧に明け暮れ、宮廷に引き籠って文芸、音楽、舞踊などの洗練された豪華な趣味に没頭し続けた。農村は荒廃し、それらを管轄するはずのタールクダールも土地をめぐり中央の命令を無視して武装割拠するなどしたため、王権は衰退した。 1856年1月、インド総督のダルフージーは藩王の堕落、内政紊乱(いわゆる悪政)、統治能力なしを理由に、アワド藩王国の内政権をすべてイギリスに委譲するように迫った。だが、アワド側は拒否したため、彼はアワド藩王国を併合することを決定した。 こうして、同年2月7日に最後の藩王ワージド・アリー・シャーは退位させられ、2月13日にアワド藩王国は正式に英領に併合された。ワージド・アリー・シャーはカルカッタへ強制送還されたのち、そこで年金受領者として暮らし、1887年9月1日に死亡した。 こうして、11代134年続いたアワドのナワーブ王朝はその歴史に幕を閉じ、全住民はイギリスの管理下におかれることとなった。
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混乱と滅亡
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紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官の趙高で、長男の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。 二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし、項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。 その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。 紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、翟王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。
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