ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーとは? わかりやすく解説

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ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/14 14:47 UTC 版)

ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー
Ghazi-ud-Din Haidar Shah
アワド王
アワド藩王
ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー
在位 1814年 - 1827年
戴冠式 1814年7月12日
別号 ナワーブ
パードシャー

出生 1769年
死去 1814年10月19日
ラクナウ
埋葬 ラクナウ、シャー・ナジャフ・イマームバーラー
子女 ナーシルッディーン・ハイダル・シャー
王朝 ニーシャープーリー朝
父親 サアーダト・アリー・ハーン2世
宗教 イスラーム教シーア派
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ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーヒンディー語:ग़ाज़िउद्दीन हैदर शाह, ウルドゥー語: غازی الدیں حیدر شاہ‎, Ghazi ud-Din Haidar Shah, 1769年 - 1827年10月19日)は、北インドアワド藩王国の君主 (在位:1814年 - 1827年)。ムガル帝国からの正式独立前はガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーン(Ghazi ud-Din Haidar Khan)を名乗っていた。

生涯

ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーの宮廷

1814年7月11日、父であるアワド藩王サアーダト・アリー・ハーン2世が死亡したことにより、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーンが太守位を継承した[1]

1818年10月19日、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーンは「アワド王」(Padshah-e Awadh)を宣し、自らの名で貨幣を鋳造するようになった[1]。ここからアワドの君主は「太守」ではなく「王」として扱われ、王を意味する「シャー」を名乗ったが、太守を意味する「ナワーブ」の称号も併用した。

また、1819年10月8日、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーンはムガル帝国の皇帝アクバル2世に対し、正式に独立を宣言した[2]。これにより、アワドはアワド王国となったわけだが、当然ながらイギリスに従属する藩王国であることに変わりはなく、ラクナウにはイギリスの駐在官が滞在していた。

1827年10月19日、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーは死亡し、息子のナーシルッディーン・ハイダル・シャーが藩王位を継承した[1]

ギャラリー

出典・脚注

関連項目




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