混乱と第一次マラーター戦争の勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:36 UTC 版)
「マラーター王国」の記事における「混乱と第一次マラーター戦争の勝利」の解説
だが、1770年12月、マーダヴ・ラーオはマイソール王国へ遠征中に結核の症状が悪化、1772年6月には講和条約を結んで撤退させ、同年11月28日に死亡した。彼の死は王国に新たな災いを呼び込んだ。 マーダヴ・ラーオの死により、弟のナーラーヤン・ラーオが宰相位を継ぎ、ラグナート・ラーオがその補佐となった。だが、ラグナート・ラーオは宰相位への野望を抱いており、ナーラーヤン・ラーオと次第に対立するようになり、ナーラーヤン・ラーオは1773年8月に暗殺されてしまった。その後、ラグナート・ラーオは宰相となったが、翌1774年4月にナーラーヤン・ラーオの息子マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが生まれると、財務大臣のナーナー・ファドナヴィースにその地位を追われ、マーダヴ・ラーオが新たな宰相となった。 しかし、諦めきれないラグナート・ラーオは宰相位を奪還するため、1775年3月にイギリスとスーラト条約を締結し、マーダヴ・ラーオを擁するナーナー・ファドナヴィースに対抗しようとした。これが第一次マラーター戦争と呼ばれる長い戦いである。 第一次マラーター戦争は、マラーター諸侯マハーダージー・シンディアらの活躍によりマーダヴ・ラーオ側の方が優勢であった。だが、一時ラグナート・ラーオの側が優勢になることがあり、不利になったナーナー・ファドナヴィースは1780年2月にマイソール王国のハイダル・アリーと同盟を結んだ。5月、ハイダル・アリーはこの盟約に従いイギリスのマドラスを目指して進軍し、第二次マイソール戦争が勃発した。1781年に入ると、イギリス軍とマハーダージー・シンディアの軍勢との争いは膠着状態になった。イギリス軍はマラーター軍の夜襲や物資供給の補給路が脅かされるなど、次第に疲弊していった。同年7月1日 、マハーダージー・シンディアのマラーターの軍勢は、イギリス軍に決定的な勝利を収めた。また、それと同時期にイギリスが行っていたコンカン地方の侵略も敗北に終わった。ベンガル総督のウォーレン・ヘースティングズは、ミュール大佐を派遣し、マハーダージー・シンディアとの和平交渉を行うように命じた。こうして、1782年5月17日にイギリスとマハーダージーとの間でサルバイ条約が締結され、講和により、イギリスはマーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを宰相と認めること、ラグナート・ラーオに年金をあてがうこと、サルセットとバルーチ以外の戦争で獲得した領土をすべてマラーターに返還することが定められた。 これにより、第一次マラーター戦争はマラーター側の勝利に終わったが、ハイダル・アリーとの盟約に違反するものであり、両国の関係は再び悪化した。
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