混乱と内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 05:46 UTC 版)
シモンは二人の息子マタティアとユダと共に殺害されたため、三男のヨハネ・ヒルカノス1世が後を継いだ。ヒルカヌスの治世は紀元前135年から紀元前104年まで及んだ。ヒルカノス1世は傭兵を用いてサマリアやかつてエドムと呼ばれたイドマヤにまで支配権を及ぼすことに成功した。ハスモン朝の世襲体制に対して当初ハスモン一族の対シリア戦争に対して協力的だったユダヤ教の敬虔派などは批判に転じるようになった。このころ、敬虔派の中から律法への忠実さを特色とするファリサイ派が発生してくる。ヒルカノスはファリサイ派でなく、サドカイ派と接近し、統治体制に組み込むことで、ユダヤ教の指導層をつなぎとめようとした。 ヒルカノス1世の死後は、遺志によってその妻が息子アリストブロス1世を大祭司にたてる形でユダヤを統治した。しかし実権のない大祭司の地位が不満だったアリストブロス1世は母親と兄弟を獄に投じて母を獄死に追い込み、政教両面の指導者の地位を手にした。彼は「大祭司」にして「王」の称号を持つというユダヤ的神権政治を具現した初めての人物となった。それもつかの間、一年たらずあとの紀元前103年にアリストブロス1世は苦痛の中で病死した。 アリストブロス1世の後はアレクサンドロス・ヤンナイオスというギリシャ風の名前を名乗った弟のヨナタンが後を継いだ。彼は2人の弟と共に獄中にあったが、アリストブロス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラによって釈放され、彼女と結婚することで王位につくことが出来た。アレクサンドロスは紀元前103年から紀元前76年まで統治し、遠征先のラガバ要塞の包囲中に死去した。もともとユダヤ民衆はハスモン朝に対して冷ややかであったが、ヤンナイオスは反対者に対して極刑で望んだため、その恐怖政治にハスモン朝に対するユダヤ人の反感がさらに高まった。 アレクサンドロスの後は妻サロメ・アレクサンドラ(在位:紀元前76年 - 紀元前67年)、さらに息子アリストブロス2世(在位:紀元前67年 - 紀元前63年)によって継承された。本来は大祭司であった兄のヨハネ・ヒルカノス2世が王位をついでいたのだが、弟のアリストブロス2世が武力によってこれを奪取したのである。この兄弟の争いがハスモン朝時代の終わりを早めることになる。 いったんは王位を追われ、大祭司職も剥奪されたヒルカノス2世はイドマヤ人の武将のアンティパトロスの支援によって体制を建て直し、エルサレムに迫ってアリストブロス2世との決戦を迫った。しかし、中東へ進出し、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウスとローマ軍がユダヤに到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイウスは有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世が傀儡にふさわしいと判断、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。
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