混乱する帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:32 UTC 版)
アーラムギール2世は高齢の皇帝であり、政治にも無関心だったことが、アノンの著書「アーラムギール2世伝」で「もっぱら歴史書を読むのに没頭した」と書き残していることから伝わってくる。このような記述から、アーラムギール2世は「世界を奪った者」を意味する「アーラムギール」の名を持つにふさわしくなく、皇帝としても不適任な人物だった。 一方、宰相となったガーズィー・ウッディーン・ハーンは皇帝を意のままに操れるようになり、事実上政治の実権を掌握した。だが、ガーズィー・ウッディーン・ハーンには軍に支払う金を調達する能力はなく、彼が実権を得る為に協力したマラーターのシンディア家、ホールカル家にも報酬を払えず、マラーターは協定違反としてデリー近郊を略奪した。 また、アーグラ付近に領土を持つジャート族のバラトプル王国は依然として健在であり、デリーの東方及び北方ではアフガン系ローヒラー族がその支配を拡大するのを阻止できなかった。 宰相ガーズィー・ウッディーンはこの状況を打開するため、1756年に軍を動員し、ローヒラー族の支配していたパンジャーブのラホールを奪った。しかし、ローヒラー族の族長ナジーブ・ハーンは、アフガン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーと常に連絡を取り合えるようにしており、ガーズィー・ウッディーン・ハーンの軍事行動は挑発以外の何でもなかった。 同年12月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはラホールを奪い返し、翌1757年1月にムガル帝国の首都デリーを占領した。デリーはアフガン軍により略奪され、その近郊アーグラやヒンドゥー教の聖地マトゥラーやヴリンダーヴァンでも同様に略奪が行われた。デリーでは徹底した虐殺が行われ、ほかの占領された都市でも同様に虐殺が行われた。 4月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはアーラムギール2世にパンジャーブ、カシミール、シンドなどの統治権を認めさせ、莫大な略奪品とともにアフガニスタンへと引き上げた。このとき、アーラムギール2世や先々代のムハンマド・シャーの娘などムガル帝国の皇女20人も連れ去られた。アフガン軍撤退後、宰相位を追われていたガーズィー・ウッディーンは復職したものの、その頃には監督官となったナジーブ・ハーンが事実上の権力者となっていた。 このアフガン軍の行動に対し、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオはすぐに弟ラグナート・ラーオをデリーに送った。だが、同年8月に彼がデリーの戦いでアフガン勢力を破ったときには、アフマド・シャーはすでに退却しており間に合わなかった。この結果、ナジーブ・ハーンはデリーを追い出され、マラーター軍はパンジャーブ一帯の占領に取り掛かった(マラーターのインド北西部征服)。
※この「混乱する帝国」の解説は、「アーラムギール2世」の解説の一部です。
「混乱する帝国」を含む「アーラムギール2世」の記事については、「アーラムギール2世」の概要を参照ください。
- 混乱する帝国のページへのリンク