混乱した要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
国内の脚気医学が混乱していた要因として、3つのことが挙げられる。第一の混乱要因は、都築によるエイクマン追試により、脚気の原因研究は次の段階に進むものの、同時に新たな論争をもたらしたことである。端的にいえば、「ニワトリの白米病と、ヒトの脚気が同じなのか違うのか」、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」が争点になったのである。前者の動物白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚気(多様な症状と流動的な病変)とが「同じ」か「違う」かの問題は、類似点と相違点のどちらを重要視するかのという選択の問題でもあった。その意味で、そもそも脚気患者を見たことがないヨーロッパの研究者と異なり、日本の中心的な基礎医学者が相違点を選択したのは、必ずしも誤りといえない。結果的にその選択は、ヨーロッパでの「実験医学」流行に便乗し、動物実験だけで安易に未知栄養欠乏説に移行しようとする研究グループを抑制した。脚気の原因を解明するには、動物白米病と脚気のギャップを埋める研究が必要であった。 後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分かれた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時は、糠の不純物を取り除いて有効成分を純化するため、アルコールが使われていた。しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出されなかった。そのため、脚気患者特に重症患者に対し、顕著な効果を上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をしなくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復に向かうことが多かった)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定することが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」とも解釈できるような状態であった。 第二の混乱要因は、脚気伝染病説が根強く信じられていたにもかかわらず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。それでも伝染病説は否定されることなく、1914年(大正3年)に内科学の権威である青山胤通が『脚気病論』を著し、三浦謹之助のドイツ語論文「脚気」が掲載され、林春雄が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張した。もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たちまち医界で受け入れられ、その後も根強い支持があった。当時の東京帝大では、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学(長與又郎・緒方知三郎)など臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏説」に反対していた。 第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべてが不純化合物であった。たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが上記の通り1931年(昭和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オリザニン「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された。
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