屠睢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/18 17:52 UTC 版)
屠 睢(と すい、徒唯、? - 紀元前214年?)は、中国秦の将軍。郡尉。始皇帝に仕え、百越征服の指揮を任されたが半ばで戦死した。
生涯
始皇28年(紀元前219年)、屠睢は楼船の水軍を率いて嶺南の百越に侵攻した。屠睢は率いる50万の兵を五つの軍に分け、一軍は鐔の山嶺を扼守、一軍は九疑の関を堅守、一軍は番禺の都を駐守、一軍は南野の境界を防守、一軍は余干の河畔に集結させた。また、始皇帝は水利技術者の史禄を遣わして軍事物資用の運河(霊渠)を築かせ、継戦能力を向上させた。諸軍はいずれも3年のあいだ鎧を脱がず、弩を駆使して戦い、ついに西甌の君主・訳吁宋を討ち取った。
その後、秦軍はさらに越地の奥深くへ進軍したが、越人たちは秦に屈さず、密林の利を活かしたゲリラ戦術を駆使して抗戦し、長期間の膠着状態が続いたため、秦軍の糧食は尽き、兵士たちは疲弊した。そこで百越の諸族は桀駿を推戴して将に立て、秦軍に夜襲を仕掛けた。この戦いで屠睢は討ち取られ、秦軍は数十万人が戦死する大敗を喫した。始皇帝は戦況を安定させるため、やむなく多数の罪人を徴発して国境の守備兵とした。
後任の任囂・趙佗によって紀元前214年に嶺南は平定された。秦滅亡後、趙佗は越人の支持を得て南越を建国し、武王を名乗った。
参考文献
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