南越の建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)
嶺南地方は古来異民族の百越の活動地域であったが、紀元前221年、秦始皇帝が斉を滅ぼして中国を統一した後、嶺南地方の攻略に着手した。紀元前219年、始皇帝は屠睢を主将に、真定(現在の河北省正定県)出身の漢人である趙佗を副将に任命し50万の大軍を率いて嶺南地方を攻めた。主将の屠睢は住民を虐殺したことから頑強な抵抗を受け現地で殺害され、新たに任囂を主将に任命するなど、4年間に及ぶ作戦の結果、紀元前214年に嶺南地方を平定するに至った。平定後は嶺南地方に南海郡、桂林郡、象郡の3郡が設置された。任囂は南海郡尉に任じられ、南海郡の下に博羅、龍川、番禺、掲陽の4県が設置された。副将であった趙佗は龍川県令に任じられている。 紀元前210年、始皇帝が病没し、二世皇帝が帝位を継承したが、紀元前209年その暴政に対し陳勝・呉広の乱が発生し秦国内は混乱、やがて劉邦と項羽による楚漢の抗争となり、中国全土は混乱状態に陥った。このような状況下にあった紀元前208年、南海郡尉の任囂が重病となると、龍川県令の趙佗が郡尉の職務を代行することとなった。程なくして任囂が病没すると、南海郡尉に就任した趙佗は南海郡内の軍隊に対し中原の反乱軍隊が進入するのを阻止する命令を発し、同時に秦が南海郡に派遣していた官僚を粛清して、新たに自らの腹心を官僚に登用した。紀元前206年に秦が滅亡した後、紀元前203年には桂林郡と象郡を併合し、南越国を建国し、「南越武王」を自称した。
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