南谿と『笈埃随筆』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 17:57 UTC 版)
南谿に先んじて同様の旅を行った人物に百井塘雨がいる。塘雨もまた列島南端の薩摩国から北端の陸奥国外が浜まで足跡を残した人物で、その記録として『笈埃随筆』(未刊)を著したが、両人には直接的な親交もあったこともあり、塘雨の旅と『笈埃随筆』は南谿の旅及び両遊記執筆に対して先行的影響の大であったことがうかがえる。 塘雨がその巡遊における見聞をまとめた『笈埃随筆』は、両遊記中にしばしば「余が友塘雨」「余の朋友塘雨」等と塘雨の見聞であることを断った上でその一部が紹介されており、中には全叙述をほぼ同書に拠っている章もある。その点に関しては、出板に際して上述の理由から稿本の一部を削った結果、分量が足りなくなる一方で独自の見聞に基づく材料も尽きていたために同書の題材を借用したものではないかとの指摘もなされるが、逆に『笈埃随筆』中には「予友橘南渓(谿)云(いはく)」等と南谿の見聞に拠った記述もあるので、そこから両者の交友の密であった様がうかがえ、題材不足による借用は否定できないものの、それ以上に南谿が「其(その)人(塘雨)近き頃かくれければ(亡くなったので)、其書(笈埃随筆)も散り失(うせ)ぬべく、其物語も聞知(ききし)る人もあるまじくなりゆかん事もを(惜)しくて、今此書(東遊記)の中に其一二事を書(かき)くは(加)ふるもの也」と述べるように、塘雨と『笈埃随筆』の存在を世間に広報する好意的意図があったものと思われる。
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