南越の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)
丞相・呂嘉は趙興(哀王)を殺害した後、趙嬰斉と南越人の妻の間に生まれた長子・趙越の嗣子である術陽侯・趙建徳(哀王の甥)を新しい南越王に立て、並びに使者を派遣して蒼梧郡の秦王趙光(趙佗の族孫)及び南越国の各官員に通達した。この時韓千秋の軍隊は南越国内に侵入し、辺境の城鎮数ヶ所を攻略していた。南越人は不抵抗を装い、また飲食を提供し、韓千秋の軍隊の前進を援助した。しかし番禺から40里の地点に至ると南越は突然韓千秋を攻撃し全滅させることに成功した。 紀元前112年の秋、武帝は罪人と江淮以南の水兵併せて10万人に進軍を命じ、兵分を5つに分けて南越攻略を目指した。第一路に任命された路博徳は伏波将軍として長沙国桂陽(現在の湖南省)に進撃させ、第二路に任命された主爵都尉楊僕は楼樓船将軍として豫章郡(現在の江西省)に進撃、第三路と第四路に任命されたのは漢朝に帰順した南越人であり戈船将軍と下厲将軍として、零陵(現在の湖南省)に進撃し、漓水(現在の広西漓江)と蒼梧郡(現在の広西)へ駐屯した。第五路は夜郎国の軍隊を動かし、牂牁江を下った。 激しい戦闘は1年間続き、紀元前111年冬、楼船将軍の楊僕率が精鋭を率いて尋峡を攻略、その後番禺城北の石門を占領し、南越の戦艦と糧食を奪い南に向かって進撃を続けた。これに伏波将軍である路博徳の軍隊が合流、共に南越の首都である番禺を目指して進撃した。番禺到着後、楊僕軍は直ちに攻撃の準備に着手し、趙建徳と呂嘉は篭城してこれに対抗した。楼船将軍は攻撃に有利な地形を選択し、軍勢を番禺の東南に配した。夜になると楊僕軍は番禺城攻撃を命じ、城内は火に包まれるようになってきた。伏波将軍の路博徳は城内の守備軍に対し投降を勧告し、多くの守備軍がこれに応じた。明け方近くになると城中の南越守備軍の大部分は路博徳に投降した。呂嘉と趙建徳は形勢が不利と見るや夜陰に紛れて数百名の部下を引き連れて脱出、船に乗り沿海を西方に逃亡した。路博徳は投降した南越人に尋問し、呂嘉と趙建徳が西方に逃亡したと知るや追討軍を派遣し、結局、王の趙建徳は路博徳の校尉司馬である蘇弘によって、呂嘉は南越郎官の孫都によって捕らえられた。 呂嘉と趙建徳が漢軍に捕らえられた後、南越国の各郡県の長官のうち蒼梧郡の秦王・趙光、桂林郡の郡監の居翁、掲陽県令などは戦わずして漢朝に投降した。戈船将軍と下厲将軍の軍及び夜郎軍が南越に到着する以前に南越は平定され、武帝は南越国の旧領に9郡を設置、漢朝による直接支配が開始された。趙佗による建国から5代93年に及ぶ南越国は滅亡、ベトナム北部を含めて漢の支配下に入ることとなった。
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