南越国の独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 08:07 UTC 版)
秦が崩壊すると、その将軍だった趙佗が広東を制圧して自立し、その勢力を紅河まで広げた。この川は、秦が海洋貿易の要として獲得しようとしていた重要な戦略目標だった。紀元前208年、趙佗は甌雒の首都古螺に迫り、君主の蜀泮を殺して甌雒を滅ぼした。趙佗は旧甌雒領を交趾郡と九真郡に分割した。秦を農民反乱が揺るがすようになると、彼は秦の圧政に苦しんできた農民たちを率いて決起し、秦に対抗した。秦が覆ったのち、楚漢戦争を勝ち抜いた漢が中国を支配するようになった時、すでに華南は再自立を果たしていた。現代では「中国」の範囲に含まれる華南と北ベトナムの地は、当時の中原からは多くの異民族が住む蛮地であるとみなされていた。趙佗は広西に領土を広げ、数十万人もの漢からの移民を受け入れた。そして203年、趙佗は南越国の武王を称して名実ともに中国から独立した。彼は旧南海郡の番禺に首都を置き、南越国を7つの領域に区分し、漢人と越の地元領主の双方に治めさせた。最盛期には、南越国は史上の越人の国家で最大規模となり、趙佗は皇帝を名乗って周辺諸国を従属させるに至った。しかし紀元前111年、南越は漢の武帝に征服された(漢の南越国征服)。
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