南越国の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 23:51 UTC 版)
詳細は「漢の南越国征服」および「南越国」を参照 秦の崩壊期に趙佗が建国した南越国は、紀元前180年に漢に名目的に従属したものの、毎年の貢納を怠っていた。紀元前112年、南越国の太后樛氏が、南越国の漢への統合を提議したが、貴族たちの激しい抵抗にあった。夏、反対派の指導者であった呂嘉が太后樛氏を処刑した。 この事件は、漢が太后の元愛人である安国少季を使節として南越国に派遣し、太后を操って起こしたものであったが、二人が処刑されたのを見て、漢は南越国に反抗の意思ありとした。武帝は韓千秋に2000人の兵を与えて鎮圧に向かわせたが、韓千秋は南越国軍に敗れ戦死した。続いて路博徳と楊僕が、紀元前112年秋に10万人の水軍を率いて、海路もしくは河川路で南越国に侵攻した。この遠征軍は紀元前111年から110年にかけて南越国の首都番禺に到達し、南越国を滅ぼした。 こうして、嶺南は再び中国王朝の支配下に入った。漢はその跡地の広東や海南島、北ベトナムの紅河デルタに九郡を設置した。ただ海南島の二郡は、紀元前82年および紀元前46年に放棄された。 前漢から新・後漢の成立期に至るまで、南越国の上層部は中国王朝に忠実であった。40年、紅河デルタ付近で徴姉妹率いる反乱が起きたが、43年に伏波将軍馬援によって鎮圧された。 新の崩壊後に成立した後漢は、南越国の支配回復に成功した。徴姉妹は捕らえられて斬首、もしくは戦死した。民間伝承では、空へと消えた、病に倒れた、川に身を投げ自殺した、などといった様々な話が伝えられている。その後も南越国は不穏な状態が続き、100年から184年の間に7度の騒優が起きた。そこで後漢は強硬的な支配政策を変え、李固の発案で忠実な部族を登用し、敵対的な部族を追放して、互いに反目させる分割統治策をとった。ただ、この方法も短期間の成功を収めただけだった。
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