史書のなかの武庚禄父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 22:47 UTC 版)
『後漢書』東夷伝に「管、蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐の偃王に命じてこれを主せしむ」とある。管は河南省鄭州の地でここに周武王の弟の管叔鮮が封じられた。蔡は河南省上蔡県の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、殷紂王の子の武庚禄父とともに、周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。
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