五胡十六国時代の幕開け
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「五胡十六国時代」の記事における「五胡十六国時代の幕開け」の解説
三国時代の抗争の後、ようやく中国を再統一した晋の司馬炎であったが、統一後はだらしなくなり、女色に耽って政治を省みないようになる。その死後に即位した恵帝は暗愚で知られる皇帝であり、皇后の賈南風などに利用されるがままであった。賈南風らは自分たちの権力を固めようと諸侯王たる皇族たちを巻き込み、八王の乱と呼ばれる内乱を勃発させたため、国内は大騒乱となる。 この乱が大規模なものとなった理由として、晋が諸侯王に対して与えた兵力がかなり大きいものであったことが挙げられる。前代の魏は諸侯王の兵力を大きく削り、監視を厳しくして皇帝に対する反乱ができないように抑えつけた。結果、諸侯王は反乱を起こせなくなり、皇族間による内乱は発生しなかった。一方、中央では短命な皇帝や幼帝が続いたこともあって、重臣の司馬懿が台頭するようになったものの、これを抑える力を持った諸侯王が登場することもなかった。結果、魏は司馬氏による簒奪を許してしまったのである。 簒奪の結果成立した晋では、これを教訓に諸侯王に大きな兵力を与えたが、それが過ぎたため、今度は有力な諸侯王による権力争いが生じ、彼らは己の兵力をもって対抗しあったため乱は泥沼化した。諸侯王は友好関係にある塞外異民族を傭兵として用いた。 八王の乱は306年に終結するが、晋の国力衰退は明らかであり、匈奴の単于の家系である劉淵はこれを好機と見た。彼は八王の1人であった成都王司馬穎に従い鄴に駐屯していたが、都督幽州諸軍事王浚・并州刺史司馬騰の討伐を名目にして鄴から離れ、304年に山西の離石で自立して匈奴大単于を名乗り、漢と匈奴が兄弟の契りを交わしていたことを名目として漢王の座に就いた(劉淵死後に改称して前趙となる)。同年には、四川でも巴賨族の李雄が成都王を名乗って晋より独立した(後に国号を大成とし、さらに漢と改称したので成漢と呼ばれる)。また甘粛では晋の涼州刺史であった張軌が自立し、前涼政権を建てた(王とは名乗らず晋に対して称臣していた)。五胡十六国時代の幕開けである。
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