五胡十六国時代の幕開けとは? わかりやすく解説

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五胡十六国時代の幕開け

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:57 UTC 版)

五胡十六国時代」の記事における「五胡十六国時代の幕開け」の解説

三国時代抗争の後、ようやく中国再統一した晋の司馬炎であったが、統一後だらしなくなり、女色耽って政治省みないようになる。その死後即位した恵帝暗愚知られる皇帝であり、皇后賈南風などに利用されるがままであった賈南風らは自分たちの権力固めようと諸侯王たる皇族たちを巻き込み八王の乱呼ばれる内乱勃発させたため、国内は大騒乱となる。 この乱が大規模なものとなった理由として、晋が諸侯王に対して与えた兵力がかなり大きいものであったことが挙げられる前代の魏は諸侯王兵力大きく削り監視厳しくして皇帝対す反乱できないように抑えつけた。結果諸侯王反乱起こせなくなり皇族間による内乱発生しなかった。一方中央では短命な皇帝幼帝続いたこともあって、重臣司馬懿台頭するようになったものの、これを抑える力を持った諸侯王登場することもなかった。結果、魏は司馬氏による簒奪許してしまったのである簒奪結果成立した晋では、これを教訓諸侯王大きな兵力与えたが、それが過ぎたため、今度有力な諸侯王による権力争い生じ、彼らは己の兵力をもって対抗しあったため乱は泥沼化した。諸侯王友好関係にある塞外異民族傭兵として用いた八王の乱306年終結するが、晋の国力衰退は明らかであり、匈奴単于家系である劉淵はこれを好機見た。彼は八王1人であった成都王司馬穎に従い鄴に駐屯していたが、都督幽州諸軍王浚并州刺史司馬騰討伐名目にして鄴から離れ304年山西離石自立して匈奴単于名乗り、漢と匈奴兄弟契り交わしていたことを名目として漢王の座に就いた劉淵死後改称し前趙となる)。同年には、四川でも巴賨族の李雄成都王を名乗って晋より独立した(後に国号大成とし、さらに漢と改称したので成漢呼ばれる)。また甘粛では晋の涼州刺史であった張軌自立し前涼政権建てた(王とは名乗らずに対して称臣していた)。五胡十六国時代の幕開けである。

※この「五胡十六国時代の幕開け」の解説は、「五胡十六国時代」の解説の一部です。
「五胡十六国時代の幕開け」を含む「五胡十六国時代」の記事については、「五胡十六国時代」の概要を参照ください。

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