五胡十六国時代以後における評価の上昇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)
「諸葛亮」の記事における「五胡十六国時代以後における評価の上昇」の解説
五胡十六国時代から南北朝時代になると、諸葛亮を名臣・名将であると評価する動きが高まった。東晋においては蜀と東晋の状況を重ね合わせ、蜀漢が正統な王朝であるという動きが強まり、諸葛亮が政治や軍事面だけでもなく、理想的な君臣関係を築いた者としても賞揚された。一方で北魏の宰相であった崔浩は「曹氏と天下を争う事あたわず、荊州を委棄し退きて巴蜀に入り、劉璋を誘奪し、孫氏を偽連し、守るも崎嶇の地に窮し、辺夷の間に僭号す。此の策の下なるは、趙他を以て偶と為すべきにして、以て管蕭の亜匹と為すは、また過ぎたるにあらずや」と、陳寿の評も過剰評価であり、昔の名将と比較できるものではないと酷評している。北朝でも北斉の宇文泰は、有能な部下に対し「孤(私)の孔明である」として「亮」の名を与えている(劉亮)。 唐代に至ると唐以前の中国史を代表する名将であるとして、太公望の侍神の一人(武廟十哲)として祀られるようになり、偉大な軍師・名政治家としての評価が固まることとなった。また民衆の間でも軍師としての諸葛亮像が語られるようになった。この傾向は時代を追うごとに強まり、宋代には神仙のような力を持つ諸葛亮像が生まれるに至る。清の雍正帝は孔子廟の侍神として諸葛亮を祀るよう決め、軍神だけでなく、儒者としても国家の尊崇を受ける存在となった。
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