参合陂の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/31 04:02 UTC 版)
参合陂の戦い | |
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戦争:参合陂の戦い | |
年月日:登国10年/建興10年11月10日 (395年12月8日) |
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場所:参合陂(現在の山西省大同市陽高県の北東) | |
結果:北魏軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
北魏軍 | 後燕軍 |
指導者・指揮官 | |
拓跋珪 拓跋儀 拓跋遵 |
慕容宝 慕容農 慕容麟 |
戦力 | |
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損害 | |
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参合陂の戦い(さんごうはのたたかい)は、中国の南北朝時代に参合陂(現在の山西省大同市陽高県の北東)において起こった北魏軍と後燕軍の間の戦いである。
経緯
395年7月、後燕の慕容垂は太子慕容宝を元帥とし、遼西王慕容農と趙王慕容麟を副元帥として、8万の兵を率いて北魏に侵攻させた。あわせて范陽王慕容徳と陳留王慕容紹に1万8千の部隊を預けて呼応して侵攻させた。8月、北魏の拓跋珪は黄河の南に兵を駐屯させた。9月、拓跋珪は臨河に進軍した。後燕の慕容宝は船で兵を渡河させようとしたが、暴風のため船数十艘が漂流した。魏軍は後燕の兵士300人あまりを捕らえたが、すべて釈放した。
慕容宝は病床にある父慕容垂のことを心配していた。拓跋珪が後燕の使者を捕らえて、慕容宝らが慕容垂の動静を聞いていないことを知ると、「もしも父がすでに死んでいたなら、何と帰るに遅いことか」と伝えさせた。慕容宝らは憂苦に沈み、燕軍の士気は動揺した。
拓跋珪は陳留公拓跋虔に黄河の東に駐屯させ、東平公拓跋儀に黄河の北に駐屯させ、略陽公拓跋遵に燕軍の南を扼させた。後秦の姚興が楊仏嵩を派遣して魏軍を救援させた。後燕の術士靳安が燕軍の敗北を予期して撤退を勧めたが、慕容宝は聞き入れなかった。
燕軍と魏軍の対峙は長期にわたった。後燕の趙王慕容麟の部将の慕輿嵩らが慕容麟の擁立を図って、計画が漏れ、慕輿嵩らは処刑された。慕容宝と慕容麟らは味方同士で疑いあった。11月、黄河が氷結した。拓跋珪は兵を率いて黄河を渡り、輜重を置いて精鋭2万騎あまりで燕軍に迫った。燕軍は油断して、備えを怠っていた。魏軍は昼夜兼行で進み、夕暮れに参合陂の西に出た。燕軍は参合陂の東にあり、蟠羊山の南の水上に陣営を構えていた。拓跋珪は夜間に諸将を分かち、馬の口にハミを噛ませて音を立てないようひそかに進軍した。翌朝、魏軍は蟠羊山に登って、燕軍の陣営めざして攻め下った。燕軍は大混乱して溺死者が万を数えた。北魏の略陽公拓跋遵が燕軍の前を遮り、燕軍の兵4、5万人が武器を捨てて捕虜となり、逃亡に成功した者は数千人に過ぎなかった。慕容宝は単騎で逃走した。後燕の陳留王慕容紹は戦死し、魯陽王慕容倭奴・桂林王慕容道成・済陰公慕容尹国らが捕虜となった。
拓跋珪は後燕の代郡太守賈閏や昌黎郡太守賈彝、太史郎晁崇らを任用したほかは、中部大人王建の進言を容れてことごとく穴埋めにした。12月、拓跋珪は盛楽に帰還した。
参考文献
参合陂の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:44 UTC 版)
391年、北魏の拓跋珪(道武帝)は異父弟の拓跋觚を使者として後燕に送ったが、拓跋觚は後燕に抑留され、返還の代償として良馬を送るよう要求された。拓跋珪は拒否し、北魏と後燕は対立した。建興10年(395年)遂に、慕容宝・慕容農・慕容麟は8万を率いて北魏を攻めた。拓跋珪は盛楽を放棄して黄河以西に鎮した。慕容宝が11月に攻めようと河を渡るところ、北魏は後燕の連絡網を絶って慕容垂が死んだという偽情報を流した。その後も北魏と後燕は対峙したが、この時慕容麟の一派が慕容麟を擁立してクーデターを起こし、失敗した。冬になると黄河が氷って北魏が攻め込むことを恐れた慕容宝は退却したが、拓跋珪は自ら追撃し、参合陂で大破した(参合陂の戦い)。生き残った者は慕容宝のほか数少なかった。 396年、慕容垂は自ら兵を率いて北魏に攻め込み、平城を攻略し拓跋虔を殺すなど優勢だったが、軍が参合陂を通過する際、兵の嘆き声を聞いて憤怒のあまり病気になり、中山まで退却すると死んだ。4月、慕容垂は清河王慕容会を次代の皇太子に指定して逝去し、慕容宝は父帝のあとを継いで即位して永康と改元した。しかし、庶長子の慕容盛は、同年齢の異母弟の慕容会が皇太子になったことを恥辱に感じ、弟の慕容策を太子にすべく進言して、これが実現した。
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