淝水の戦い後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:57 UTC 版)
これらの国々が乱立する中で、前燕の慕容儁の弟の慕容垂によって建てられた後燕と、羌の族長姚萇によって建てられた後秦が次第に強大となる。394年に後燕は西燕を、同年に後秦は前秦をそれぞれ滅ぼして領土を拡大し、両者の睨み合いとなるかと見えたが、代から改称した鮮卑拓跋部による北魏が台頭する。 後燕は、395年に北魏に対して遠征を行ったが大敗した(参合陂の戦い)。翌年に慕容垂が死去し、398年には慕容垂の弟の慕容徳が離反して南燕を建て、さらには北魏に領土の大半を奪われるなど、後燕は一気に頽勢となった。407年、漢人の馮跋が高句麗の王族出身の慕容雲(元の名は高雲)を擁立したことで後燕は滅亡する。馮跋の政権は北燕と史称されるが、保持した領地は遼東と遼西のみの狭い地域である。
※この「淝水の戦い後」の解説は、「五胡十六国時代」の解説の一部です。
「淝水の戦い後」を含む「五胡十六国時代」の記事については、「五胡十六国時代」の概要を参照ください。
- 淝水の戦い後のページへのリンク