淝水の決戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)
同月、前秦の驃騎将軍張蚝は淝水の南岸に進んで謝石軍を破った。その為、謝玄・謝琰は数万の兵をもって張蚝軍の到来を待ち構えたが、張蚝は軍を引いて北に戻り、苻融率いる前鋒軍は淝水北岸の近くに陣を布いた。これにより、両軍は淝水を挟んでにらみ合いの状態となり、お互いに渡河する事ができなくなった。 この時、謝玄は苻融の下へ使者を派遣して「君は敵陣深く入り込んでおり、水辺近くに陣を布いている。これは持久の計であり、速戦ではないぞ。もし軍を少し引き、将士に陣を移すよう命じたならば、晋兵は渡河する事が出来、勝負を決する事が出来よう。なんと良い事ではないか!」と述べ、河を渡り切ってから勝負を決するよう持ち掛けた。この申し出に前秦の諸将はみな「我らは多勢であり、敵は寡勢です。渡河させなければ、何もできません。これこそ万全というべきです」と述べたが、苻堅は「兵を引いて少しだけ退却し、敵が半ばまで渡ったところで我が鉄騎をもって迫り、これを撃破するのだ。これで勝てないわけがなかろう!」と述べ、表向きは謝玄の申し入れに乗った振りをした。苻融もまたこの意見に同意し、その軍に退却を命じた。これを受け、謝玄もまた約束通り謝琰・桓伊と共に精鋭八千を率いて渡河を開始した。 この時、既に謝玄らは前秦の尚書朱序(前述した、もと東晋の梁州刺史)と密かに内通しており、前秦軍が誘いに乗って退却を始めたのを見計らい、朱序が陣の後方より大声を挙げて「秦兵は敗れた!」と叫び回った。これにより、謝玄軍が近づいても前秦軍は後退に歯止めが利かなくなった。こうして謝玄らは無事に渡河を果たすと、前秦軍へ突撃して大勝を挙げ、大将の苻融を討ち取った。これにより前秦軍は完全に崩壊し、残った兵はみな武具を棄てて遁走した。この混乱により、味方に踏み潰された前秦兵の死体が野を覆い川を塞いだ。謝玄らはこれに追撃をかけ、青岡まで到達した。逃走する者は風の音や鶴の鳴き声を聞き、みな晋兵が至ったと勘違いし、昼夜関係なしに死に物狂いで逃げ続け、飢えと凍えにより7・8割の兵が死んだ。苻堅自身もまた流れ矢に当たって負傷し、単騎で淮北まで逃走した。 謝玄は苻堅の乗っていた雲母車をはじめ、儀服・器械・軍資・珍宝・畜産など数えきれない程の物資を鹵獲し、手に入れた牛馬などの家畜は10万頭を超えた。また、寿春は再び東晋の領土となった。 12月、詔により謝玄の下に殿中将軍が派遣され、その奮戦を慰労した。謝玄は前将軍に昇進して仮節を授けられたが、これを固辞して受けなかった。また、銭100万と綵(絹織物)1000匹を下賜された。
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