後燕建国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 19:29 UTC 版)
皇帝に即位後、弟の慕容徳を車騎大将軍・范陽王に封じ、子の慕容農を遼東半島に派遣させ、高句麗から遼東半島を奪取した。392年6月に翟魏を討伐、394年8月に西燕も滅ぼし、山東を東晋から奪回するなど領土拡大に邁進、かつての前燕を上回る領土を手に入れた。また、公孫表・賈彝・宋隠・屈遵らを登用、漢人の登用も進めて流民も受け入れ、国力の増大を図った。 395年5月、病気のため子の慕容宝を北魏に派遣したが、11月に北魏の王の拓跋珪に大敗して軍の大半を失った(参合陂の戦い)。396年3月、慕容垂は自ら北魏に出兵、北魏の都の平城を落として拓跋珪を追放したが、4月に帰途の陣中における上谷で70歳で没した。臨終直前に、孫の慕容会を皇太孫に指定して、子の慕容宝が後を継いだが、慕容宝は亡父の遺言にそむいて末子の慕容策を皇太子とした。同時に北魏が勢いを盛り返し、首都の中山に迫るなど後燕と北魏の勢力関係は覆り、後燕は衰退していった。 なお、その死については慕容垂は帰途の際に参合陂で前年の戦いによる遺骸の山を見て弔いの儀式を行なったところ、戦死者の父兄が一斉に号泣して軍全体が大声で泣き出し、慕容垂はそれを恥じ入って吐血して病を得て急死したと伝えられている。
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