後燕の部将
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高雲は慕容宝に仕えて活躍した。397年、慕容宝は北魏の攻撃を受けて中山を棄て、旧都の龍城へ奔走した。龍城で慕容宝の子の慕容会が慕容策が太子になったことを怒って龍城を包囲した。そこで高雲が100ほどの兵を率いて慕容会を奇襲すると、慕容会は中山に逃げて慕容詳に殺された。この功績によって、高雲は夕陽公に封ぜられて慕容宝の養子となり、慕容雲に改姓した。この頃、慕容雲は口数が少なく時の人に愚人と言われたが、ただ馮跋だけはその度量を認めて友とした。馮跋は後に慕容雲を擁立して北燕を建てる。 暴君の慕容熙の代の406年に、後燕は皇后の苻訓英の案で高句麗を攻めた。慕容熙は遼東を攻撃させたが、城の守りが固く攻略できなかった。後燕軍はさらに3千余里進んだが、凍えて疲れた兵馬から死者が続出し、高句麗の木底城を攻めて大敗して帰還した。慕容雲は矢傷を負い、また慕容熙の残虐さを恐れたため官を去った。
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後燕の部将
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401年に慕容熙が即位し、407年に馮跋と弟の馮素弗が山沢に逃げた。その理由として『晋書』にあるのは、慕容熙の即位前に、馮素弗と従兄の馮万泥が昔水に浮かぶ金龍を見つけて捕らえたという話を聞き、慕容熙がそれを求めると馮素弗が黙秘としたためである。慕容熙は密かに馮跋兄弟を誅殺したいと考え、後に馮跋も罪を得たので、山沢に逃げた。探し出されて殺されることを恐れた兄弟は慕容熙への反乱を謀った。これに従兄の馮万泥、張興、同年に反乱に失敗した苻進ら22人が結謀した。 馮跋と二弟は婦人に車を御させて龍城に潜入すると北部司馬の孫護の家に匿われた。そして慕容熙が皇后の苻訓英の葬儀のために龍城を出ると、張興や苻進らが乱を起こした。馮跋は慕容雲をよく思って君主に推した。馮跋の従兄の子の馮乳陳等が鼓噪して弘光門に進むと禁衛は皆逃げたので、馮跋は入城して城門を閉めた。占拠の報告が届くと、慕容熙は急いで帰還して夜に龍城の北門を攻めたが、勝てずに門外に閉め出された。慕容雲は天王に即位して大赦し、正始に改元した。国号は「燕」のままだが、この時後燕は滅んで北燕になったとされる。ただし慕容雲は後燕の皇族で、実質的な建国者は馮跋であるため、高雲を後燕最後の皇帝とする場合もある。
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