後燕の部将とは? わかりやすく解説

後燕の部将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 17:54 UTC 版)

高雲」の記事における「後燕の部将」の解説

高雲慕容宝仕えて活躍した397年慕容宝北魏攻撃受けて中山棄て旧都龍城奔走した龍城慕容宝の子慕容会慕容策太子になったことを怒って龍城包囲した。そこで高雲100ほどの兵を率いて慕容会奇襲すると、慕容会中山逃げて慕容詳殺された。この功績によって、高雲夕陽公に封ぜられて慕容宝養子となり、慕容雲改姓したこの頃慕容雲口数少なく時の人愚人と言われたが、ただ馮跋だけはその度量を認めて友とした。馮跋は後に慕容雲擁立して北燕建てる暴君慕容熙の代の406年に、後燕皇后苻訓英の案で高句麗攻めた慕容熙遼東攻撃させたが、城の守り固く攻略できなかった。後燕軍はさらに3千余里進んだが、凍えて疲れた兵馬から死者続出し高句麗の木底城を攻めて大敗して帰還した慕容雲矢傷負い、また慕容熙残虐さを恐れたため官を去った

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後燕の部将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 08:40 UTC 版)

馮跋」の記事における「後燕の部将」の解説

401年慕容熙即位し407年馮跋と弟の馮素弗が山沢逃げた。その理由として『晋書』にあるのは、慕容熙即位前に、馮素弗と従兄の馮泥が昔に浮かぶ金龍を見つけて捕らえたという話を聞き慕容熙がそれを求めると馮素弗が黙秘したためである。慕容熙密かに馮跋兄弟誅殺したいと考え、後に馮跋も罪を得たので、山沢逃げた探し出され殺されることを恐れた兄弟慕容熙への反乱謀った。これに従兄の馮泥、張興同年反乱失敗した苻進ら22人が結謀した。 馮跋と二弟は婦人に車を御させて龍城潜入する北部司馬の孫護の家に匿われた。そして慕容熙皇后苻訓英葬儀のために龍城を出ると、張興や苻進らが乱を起こした馮跋慕容雲をよく思って君主推した馮跋従兄の子の馮乳陳等が鼓噪して弘光門に進むと禁衛は皆逃げたので、馮跋入城し城門閉めた占拠報告が届くと、慕容熙急いで帰還し夜に龍城北門攻めたが、勝てずに門外閉め出された。慕容雲天王即位して大赦し、正始改元した。国号は「燕」のままだが、この時後燕滅んで北燕になったとされる。ただし慕容雲後燕皇族で、実質的な建国者は馮跋であるため、高雲後燕最後の皇帝とする場合もある。

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