熊野大迂回への疑問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:35 UTC 版)
『日本書紀』では神武天皇による紀伊名草邑から熊野への大迂回が記される。 鳥越憲三郎は著書『大いなる邪馬台国』(講談社、1975年)において、古代の舟で熊野灘へ迂回したとは常識的に考えられず、この記事を後世の地名に影響されて脚色されたものと唱えた。丹敷の地名も万葉仮名では「ニフ」と読むべきで、丹敷戸畔のいた丹敷浦を丹生川の合流地域であるとしており、そこには丹生都比売神社(ニフツヒメ)があることを指摘している。このことから、古くは紀ノ川上流を熊野と称していたと見て、それが後の紀伊半島全体を熊野と称するようになったことしている。また、紀ノ川を遡上すると容易く大和南部に達することや、紀ノ川が古代の交通路であったことに注目して、神武行軍の紀ノ川遡上説を主張している。 小説家の邦光史郎は著書『消えた銅鐸族~ここまで明らかになった古代史の謎~』(光文社、1986年)で、古くから熊野灘が航海の難所であり大阪湾から熊野灘を乗り切って東へ行く航路が開けたのが元禄になってからであることや、熊野山中から吉野への抜ける陸路も伯母峰峠が難所であることから、この迂回行動を東征経路で最も不合理な記述であると評価している。 宝賀寿男は鳥越憲三郎や邦光史郎の見解を合理的で妥当な見解、傾聴すべき意見と評価し、更に『古事記』における「紀伊国竃山→熊野村→吉野河の河尻」という簡単な東征経路や、『日本書紀』で名草邑の次に登場する狭野の地名に注目して、狭野の地名をかつらぎ町大字佐野と関係するものと見ている。また、荒坂の地名も五條市今井町に荒坂峠として存在し、その東方4キロメートルに阿陀の地があることから、神武行軍の紀ノ川遡上説を主張している。
※この「熊野大迂回への疑問」の解説は、「神武東征」の解説の一部です。
「熊野大迂回への疑問」を含む「神武東征」の記事については、「神武東征」の概要を参照ください。
- 熊野大迂回への疑問のページへのリンク