熊野川総合開発計画
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熊野川は紀伊半島では紀の川に並ぶ大河川である。その流域面積の大半は紀伊山地内であり、かつ大台ヶ原を始めとして年間総降水量が平均で3,000ミリメートル、多いときには5,000ミリメートルにも達する日本屈指の多雨地帯である。これに加え瀞峡など険阻な峡谷が形成されている。こうしたことから水量が極めて多い急流河川であり、水力発電には最適な河川であった。だが険しい山と谷によって交通の便が極めて悪く、開発の手がなかなか伸びない河川でもあった。 熊野川水系における河川開発計画は、1937年(昭和12年)に当時河川行政を管轄していた内務省が全国64河川を対象に河水統制事業の調査河川の一つに選ばれたことより始まる。東京帝国大学教授・内務省土木試験所長であった物部長穂が提唱した「治水と利水を統合した、水系一貫の河川開発」、すなわち河川総合開発事業が国策として推進されたことによるものである。熊野川は内務省大阪土木出張所が調査を行う河川として予備調査が開始されたが、その後の太平洋戦争によって調査は進捗しなかった。 戦後壊滅に陥った日本経済の回復と、治水事業放置による水害の頻発に頭を悩ませていた経済安定本部は中断していた河川総合開発事業の再開を図り、1947年(昭和22年)に24河川を対象とした調査が行われた。この際熊野川は建設省と農林省が共同で調査を開始した。農林省については熊野川本流上流部を紀の川と連絡水路でつなぎ熊野川の水を紀の川へ分流させる計画を立て、建設省はアメリカのTVA(テネシー川流域開発公社)方式である多数の多目的ダムを熊野川本流および北山川に建設し、治水と灌漑、水力発電を行おうとした。 この「熊野川総合開発計画」は熊野川本流に三箇所、北山川流域に五箇所の多目的ダムを建設する壮大なものであった。この内北山川には上流より前鬼口ダム、北山ダム、大沼ダム、小松ダムの四ダムが計画され、北山川支流の東ノ川に大瀬ダムが計画された。この中で最上流部に計画されていた前鬼口ダム(ぜんきぐちダム)が池原ダムの原点である。規模は高さ95.0メートル、総貯水容量2,950万トンの重力式コンクリートダムであった。調査は1949年(昭和24年)に本格化したが、予測された総事業費約450億円(当時)に対して完成後の治水、かんがい効果がわずかであることが判明。費用対効果のバランスが著しく欠けることで「熊野川総合開発計画」は1953年(昭和28年)をもって中止され、上記のダム計画も全て中止された。
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