熊野川開発全体計画
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こうして建設省による「熊野川総合開発計画」は頓挫したわけであるが、先に述べたとおり水力発電として開発するには極めて魅力的な河川でもあり、1950年(昭和25年)に熊野川水系は国土総合開発法に基づき吉野熊野特定地域総合開発計画の対象区域となり、開発の機運はさらに高まった。1952年(昭和27年)には電源開発促進法の成立により公営企業である電源開発が誕生したが、電源開発は建設省が計画を中止した後も水力発電単独で調査を進めた。 調査終了後1954年(昭和29年)7月に第15回電源開発調査審議会が開かれ、席上10地点の水力発電所からなる「熊野川開発全体計画」が策定された。この計画では建設省が中止したダム計画八箇所のうち六箇所を引き継ぎ熊野川本流筋に風屋ダムと二津野ダム、北山川筋に池原(旧・前鬼口)、七色(旧・北山)、奥瀞(旧・大沼)、大瀬の四ダムを建設。さらに大瀬ダムから流域変更を行って三重県尾鷲市を流れる銚子川の支流・又口川を経て熊野灘へ導水、この間に二箇所の発電所を建設。熊野川本流に建設省が施工を進めていた猿谷ダムでは紀の川分水を利用して二箇所の発電所を建設するという壮大な計画であった。 この内熊野川本流筋の風屋・二津野ダム、及び紀の川分水に絡む西吉野第一・第二発電所、そして尾鷲分水に絡む東ノ川の大瀬ダムがまず着手され、続いて北山川筋の池原・七色・奥瀞三ダムからなる水力発電所群が着手されたのである。池原ダムはこれら「熊野川開発全体計画」における最大、中核の施設として計画された。
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