シリア・メソポタミア戦争とは? わかりやすく解説

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シリア・メソポタミア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 14:34 UTC 版)

シャープール1世」の記事における「シリア・メソポタミア戦争」の解説

対外戦争尽力し西方ではローマ帝国何度戦い(シリア・メソポタミア戦争(イタリア語版)、242年 - 260年)、これに勝利した243年にレセナの戦いイタリア語版英語版)でローマ敗北したが、244年にはマッシナの戦いでローマ軍破りローマ皇帝ゴルディアヌス3世はこの戦いで敗死している。また、253年にもバルバリッソスの戦い英語版)でローマ軍降している。260年にはローマ軍エデッサの戦い破って皇帝ウァレリアヌス帝を捕虜とした。このときの勝利記念として、ナクシュ・エ・ルスタムの岩壁に、ウァレリアヌス馬上シャープール1世降伏しているレリーフがある。261年にはカッパドキア進出して勢威示したが、都市国家パルミラ(現シリア)の抵抗遭って大敗してしまい、勢力拡大結局ユーフラテス川以東までにとどまることとなったちなみにこのときに捕らえた捕虜使って、スシアーナ地方灌漑用の堤(皇帝堤)を建設している。 東方ではクシャーナ朝交戦し、これを破ってアフガニスタン進出している。また、ソグドサカなどの脅威備えて東方境域フワラーサーン(ホラーサーン)の防衛のため城塞都市「ネーウ・シャープフル」(w Šāpuhr:「善良なシャープフルの意味)を建設した伝えられる。これが後のニーシャープール前身となった。これらの征服事業によってシャープールは、ナクシェ・ラジャブ(英語版碑文貨幣銘文において父アルダシールの「エーラーンの諸王の王」を超える「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)の称号初め名乗った以後これがサーサーン朝歴代君主たちに継承されて行く。

※この「シリア・メソポタミア戦争」の解説は、「シャープール1世」の解説の一部です。
「シリア・メソポタミア戦争」を含む「シャープール1世」の記事については、「シャープール1世」の概要を参照ください。

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