シリア・セルジューク朝の分裂とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > シリア・セルジューク朝の分裂の意味・解説 

シリア・セルジューク朝の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 15:56 UTC 版)

シリア・セルジューク朝」の記事における「シリア・セルジューク朝の分裂」の解説

トゥトゥシュ大セルジューク朝スルタン位をめぐる争い介入して敗死した後も、彼の二人の息子リドワーンドゥカーク依然としてシリア勢力保ちつづけていた。リドワーンアレッポ継承しドゥカークダマスカス総督によって担がれて、兄弟で父の築いたシリアシリア・セルジューク朝二分割して支配した。彼らは十分に権力確立していなかったバルキヤールクスルタン認めることを拒否しそれぞれマリク(王)を称してアレッポダマスカス自立することとなった。 しかし、いずれもまだ年若かったリドワーンドゥカーク兄弟お互いにきわめて不仲で、北のアレッポセルジューク政権と南のダマスカスセルジューク政権の間では反目続いた1097年パレスチナ目指しまずアナトリア席巻した第1回十字軍が北シリア現れアンティオキア包囲したが、彼らはこの脅威に対してまったく有効な対処一致団結した協力も行うことなくアンティオキアからエルサレムに至る沿岸都市征服を見逃すこととなったダマスカスでは、トゥトゥシュ仕えアミール将軍)のひとりであったトゥグ・テギーンがドゥカーク後見役アタベク)となり、政治実権握っていた。ドゥカークとトゥグ・テギーンはアンティオキア救援に応じて軍を出したが、失敗終わってみすみす兵を引く。 一方アレッポでは、リドワーンドゥカーク敗走冷ややかに見ていたが、十字軍略奪自分領内に及ぶに至ってアンティオキア救援の兵を送るがこれも敗北してしまう。 応援求め先のなくなったアンティオキアモースルジャズィーラ地方現在のイラク北部都市)のアタベクケルボガ(カルブーカ)に救援求めるが、彼とリドワーンドゥカーク連合軍駆けつける前にアンティオキア山頂の砦を残して陥落していた。しかも連合軍士気低く、これはケルボガシリアでも大きな顔をすることを恐れたドゥカークが、ケルボガ軍勢合流した際に、兵隊たちにケルボガ悪口流したためであった。しかもアンティオキア山上最後の決戦ではケルボガ領主の軍を置いてドゥカークらは先に退却し結果ムスリム連合軍壊走十字軍によるアンティオキア陥落許した結局、ダマスカス・セルジューク政権包囲前に入って守り固めた内陸ホムスのみを確保したにすぎなかった。

※この「シリア・セルジューク朝の分裂」の解説は、「シリア・セルジューク朝」の解説の一部です。
「シリア・セルジューク朝の分裂」を含む「シリア・セルジューク朝」の記事については、「シリア・セルジューク朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「シリア・セルジューク朝の分裂」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シリア・セルジューク朝の分裂」の関連用語

シリア・セルジューク朝の分裂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シリア・セルジューク朝の分裂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシリア・セルジューク朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS