シリア・セルジューク朝の分裂
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「シリア・セルジューク朝」の記事における「シリア・セルジューク朝の分裂」の解説
トゥトゥシュが大セルジューク朝のスルタン位をめぐる争いに介入して敗死した後も、彼の二人の息子リドワーンとドゥカークは依然として北シリアに勢力を保ちつづけていた。リドワーンはアレッポを継承し、ドゥカークはダマスカスの総督によって担がれて、兄弟で父の築いた北シリアのシリア・セルジューク朝を二分割して支配した。彼らは十分に権力を確立していなかったバルキヤールクをスルタンと認めることを拒否し、それぞれがマリク(王)を称してアレッポとダマスカスに自立することとなった。 しかし、いずれもまだ年若かったリドワーンとドゥカークの兄弟はお互いにきわめて不仲で、北のアレッポのセルジューク政権と南のダマスカスのセルジューク政権の間では反目が続いた。1097年、パレスチナを目指しまずアナトリアを席巻した第1回十字軍が北シリアに現れアンティオキアを包囲したが、彼らはこの脅威に対してまったく有効な対処も一致団結した協力も行うことなく、アンティオキアからエルサレムに至る沿岸諸都市の征服を見逃すこととなった。 ダマスカスでは、トゥトゥシュに仕えるアミール(将軍)のひとりであったトゥグ・テギーンがドゥカークの後見役(アタベク)となり、政治の実権を握っていた。ドゥカークとトゥグ・テギーンはアンティオキアの救援に応じて軍を出したが、失敗に終わってみすみす兵を引く。 一方、アレッポでは、リドワーンがドゥカークの敗走を冷ややかに見ていたが、十字軍の略奪が自分の領内に及ぶに至ってアンティオキアに救援の兵を送るがこれも敗北してしまう。 応援を求める先のなくなったアンティオキアはモースル(ジャズィーラ地方、現在のイラク北部の都市)のアタベク、ケルボガ(カルブーカ)に救援を求めるが、彼とリドワーン、ドゥカークの連合軍が駆けつける前にアンティオキアは山頂の砦を残して陥落していた。しかも連合軍は士気が低く、これはケルボガがシリアでも大きな顔をすることを恐れたドゥカークが、ケルボガの軍勢に合流した際に、兵隊たちにケルボガの悪口を流したためであった。しかもアンティオキア山上の最後の決戦ではケルボガや領主の軍を置いてドゥカークらは先に退却し、結果ムスリム連合軍は壊走し十字軍によるアンティオキア陥落を許した。結局、ダマスカス・セルジューク政権は包囲の前に入って守りを固めた内陸のホムスのみを確保したにすぎなかった。
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