独立国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:14 UTC 版)
「自治」を実現した当初の租界は、新たな境界が正式に認められたイギリス租界を中心に、地理的には依然として他の両租界とそれぞれ分かれていた。しかし行政的には、初めて新設された工部局に三租界が統一された。この体制はその後1850年代を通じて、ほぼ10年近く維持された。 太平天国の乱(1851年-1864年)に際し、英国・米国・フランスの三租界において防衛と治安維持ための防衛共同会議が提唱されるが、事実上フランス租界がこの協力を拒否。防衛上の協力関係となった英米租界は、防衛のために租界外へ軍事用道路(越界築路)を延長するなど協力態勢となり、1860年の上海侵攻で江南地方の制圧を進めていたのは李秀成軍に対して防衛戦を行う。 この太平天国軍(髪長族)による上海への進攻を機として、1863年9月、英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「外国租界」と変更した。この外国租界は、共同租界と称された。これに対し、防衛会議を拒否したフランス租界は合弁されず、独立した組織へ移行してゆく。フランス租界はイギリス主導の租界運営に見切りをつけ、英米租界の合併に先立つ1862年5月に、統一行政から離脱し、自らの行政機関である公董局(中国語版)を設立した。 合併後の外国租界は、管轄地域がかなり拡大し、その行政能力も大きく増進した。太平天国の乱が終焉すると、越界築路は商業・娯楽などを目的とした公用となり、1866年改定の新章程で明文化に至り新権利となり、その後の使用拡大から拡張・延長されていった。また太平天国の乱の拡大により大量の難民が租界に流入した影響もあり、租界当局は、1869年にふたたび『土地章程』を中国側に無断で一方的に改定し、『第三次土地章程』として発表した。 この新たな『第三次土地章程』では、従来の借地人会議を納税外人会議に拡大し、これに租税予算の審議権、工部局董事会(市参事会)の選出などの権限を与えられ、いわゆる市議会としての機能を完全に持たせた。工部局の権限もさらに強められ、警察、消防、衛生、教育、財務など市政に関するあらゆる諸機関を設置し、完全な行政システムを成立させた。 さらに、『第三次土地章程』の公布に先立ち、工部局側は同年4月、租界在住の中国人をめぐる裁判権に関して『洋涇浜設官会審章程』という名の司法規定を発布した。この規程によると、租界在住の中国人についての裁判は、租界に設置されている「会審公堂」(裁判所)において、上海道台から派遣された「同知」(裁判官)によって行われる。 ただし、当事者の一方が外国人もしくは外国人の雇用した中国人である場合、かならず領事の認定した陪審官とともに審議しなければならず、被告が判決に対して不服がある場合、上海道台と領事官の双方に上訴できるとされた。以上二つの章程により、立法と行政に関しては完全に、司法に関しては制限的ではあるが、租界は一個の「独立国」を立ち上げたといえる。ちなみに、「外国租界」への参加を拒否し、1862年に独自の行政機関である公董局を設立したフランス租界も、この公董局に工部局と同様な機能を持たせ、外国租界の『第三次土地章程』と内容の近い、『公董局組織章程』を頒布した。公董局には、「会審公堂」と同様に裁判機構を設置した。このようにフランス租界もまた、「外国租界」と同様に「独立国」を作り上げたといえる。 租界が始まった1845年の時点では中国側の主権保持が明確に規定されていたにもかかわらず、列強はこれらの「土地章程」や「会審公堂」(裁判所)の成立による違法な主権侵犯を中国側に無断で実行し続けた。当然中国側は工部局に対しこれらの撤回と租界拡張を停止する様に申し入れたが、要求は受け入れられなかった。
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