独立国家時代(4世紀~1632年)
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「エチオピアにおけるユダヤ人の歴史」の記事における「独立国家時代(4世紀~1632年)」の解説
伝承によれば、ベタ・イスラエルの王国(ゴンダール王国)は、アクスムのエザナの戴冠(西暦325年)以降に建国されたとされる。アクスムのエザナは幼少期に宣教師フルメンティの教育を受け、エチオピア皇帝への即位後には帝国の国教をキリスト教に定めた人物である。この時エチオピアに住むユダヤ人たちはキリスト教への改宗を拒否し、帝国に対して反乱を起こした。「ベタ・イスラエル」とは、当時のエチオピア皇帝が彼らを指して用いた呼称である。その後起こったキリスト教勢力との間の内戦の末、ベタ・イスラエルは独立国家を建国した。その領域は現在のエチオピア北西部から、スーダンの東部にまたがっていた。 13世紀までにベタ・イスラエルは、キリスト教徒居住地域の北西に位置する山岳地帯へと移住した。当時の王国はタナ湖の北部、現在のシミエン山地からデンビア郡にまたがる領域に位置し、ゴンダールを首都としていた。建国者であるピネハス王は大祭司ツァドクの子孫であり、その後王国は東方、南方へと領土を拡大した。 9世紀半ばはアクスム王国が領土を拡大した時期であり、王国はベタ・イスラエルの居住地域にも侵攻した。ギデオン4世治下のベタ・イスラエルはアクスム王国軍を撃退したものの、ギデオン4世はこの戦いで戦死した。ギデオン4世の死後国王に即位したのは、王女ユディトであった。 国王に即位したユディトは異教を信仰するアガウ族と協定を結び、960年ごろ、アガウ族、ベタ・イスラエルの連合軍はアクスム王国の首都、アクスムに侵攻した。連合軍はアクスムを征服、都市を破壊し、この時に多数のキリスト教会も破壊された。さらに、女王ユディトはアクスムの王族を虐殺した。その中にはデブレ・ダモ修道院に幽閉されていた王族も含まれており、当時王位継承権を持っていた人物すべてが殺害されたとされる。 こうして、ベタ・イスラエルの王国は858年~1270年にかけて最盛期を迎えた。王国については多数の記録が残されている。ユダヤ人探検家エルダド・ハッ=ダーニーは、「クシュ川の対岸に位置するユダヤ人の王国」の出身であると自称していたほか、マルコ・ポーロやトゥデラのベンヤミンもエチオピアにユダヤ人の王国が存在したと書き残している。 1270年、ソロモン朝の「復活」により、ベタ・イスラエルの最盛期は終わりを迎えた。以降3世紀にわたり、ベタ・イスラエルはソロモン朝との戦いを繰り広げた。 1329年、エチオピア皇帝アムダ・セヨンは北西部のシミエン、ウェゲラなどの地域に対する軍事遠征を行った。この地域はベタ・イスラエルの勢力圏下で、多くの人々がユダヤ教に改宗した地域でもあった。 エチオピア皇帝イェシャク(在位1414–1429)はベタ・イスラエルの王国を征服した。征服地で皇帝はユダヤ人に対する迫害を行った。征服地は三分され、皇帝自身が任命した代官によって統治された。ユダヤ人の社会的地位はキリスト教徒より低いものとされ、改宗を拒否したユダヤ人は土地を奪われた。 勅令の中で皇帝は「父の土地を継ぎたい者はキリスト教の洗礼を受けよ。さもなくば『流浪民(ファラーシー)』になるがよい。」と述べており、この『ファラーシー』という単語はのちにエチオピアにおけるユダヤ人に対する蔑称となった。 1435年、フェラーラのエリヤは息子に宛てた手紙の中で、エルサレムで出会ったエチオピアのユダヤ人の男について書き残している。男はキリスト教徒のハベシャ族との戦いについてエリヤに語った。また、エリヤは男の宗派をカライ派とラビ派の中間と書き残している。 男の属する集団はタルムードを知らず、ハヌカーにも参加しない一方で、カノンにはエステル記が含まれており、さらにトーラーを口伝していたという。その他にもエリヤは男が独自の言語を話していたこと、男が6カ月をかけてエルサレムまで旅したこと、聖書に登場するゴザン川は男の故郷である王国の国内にあること、などを書き残している。 1450年までにベタ・イスラエルの王国はイェシャク帝に奪われた領土を奪還し、反撃の準備を開始した。そして1462年、エチオピア帝国に侵攻したものの、敗戦し多くの兵を失った。その後エチオピア帝国はベゲムデル地方に侵攻し、7年の間に多数のユダヤ人を虐殺した。皇帝ザラ・ヤコブ(在位1434年~1468年)はこの虐殺を功績として、自ら『ユダヤ人の絶滅者』と称している。しかし領土を縮小し、多数の人口を失いながらも、その後ユダヤ人の王国は再建された。 16世紀、エジプトの首席ラビであるダヴィド・イブン・ジムラは、ハラーハーの中でエチオピアにユダヤ人が存在することを認めた。 1529年から1543年にかけ、オスマン帝国の支援を受けたアダル・スルタン朝がエチオピア帝国に侵攻し、帝国を崩壊寸前まで追い込んだ。この時ユダヤ人たちはエチオピア帝国と協定を結んでいた。彼らは当初アダル・スルタン朝を支援しようとしていたが、無視され、多数のユダヤ人が殺害された。結果ユダヤ人たちはアダル・スルタン朝に奪われた領土を奪還すべく、エチオピア帝国と同盟を結んで戦った。最終的にエチオピア帝国が戦争に勝利し、エチオピアを征服しようとするアフマド・グランの野望は阻止された。 その後皇帝ゲラウデオス治下のエチオピア帝国は、ユダヤ人たちがアダル・スルタン朝を支援しようとしていたことを根拠に、再びユダヤ人王国に対し宣戦を布告した。ポルトガルの支援を受けた帝国軍はユダヤ人王国に勝利し、国王ヨラムを処刑した。王国の領土は大きく縮小し、シミエン山地の周辺のみとなった。 国王ヨラムの処刑後、ラディが新たな国王に即位した。その後国王ラディは皇帝メナス治下のエチオピア帝国に勝利し、南方に領土を拡張、さらにシミエン山地の守りを強化した。 サルサ・デンゲル帝(在位1563年~1597年)の時代、エチオピア帝国は再びユダヤ人王国に侵攻した。王国は包囲されたものの、最終的に帝国軍は撤退した。しかし包囲戦の末に国王ゴシェンは処刑され、多数の兵士を含むユダヤ人が集団自殺した。 1622年にカトリックに改宗したことで知られるスセニョス1世の治下、エチオピア帝国はまたもユダヤ人王国と交戦した。最終的に1627年に王国は征服され、多数のユダヤ人が奴隷にされた。また多くが改宗を強制されるか、土地を失った。
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