独立国家時代とは? わかりやすく解説

独立国家時代(4世紀~1632年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 10:18 UTC 版)

エチオピアにおけるユダヤ人の歴史」の記事における「独立国家時代(4世紀1632年)」の解説

伝承によればベタ・イスラエル王国(ゴンダール王国)は、アクスムのエザナの戴冠(西暦325年)以降建国されとされるアクスムのエザナは幼少期宣教師フルメンティ教育を受け、エチオピア皇帝への即位後には帝国国教キリスト教定めた人物である。この時エチオピアに住むユダヤ人たちはキリスト教への改宗拒否し帝国に対して反乱起こした。「ベタ・イスラエル」とは、当時エチオピア皇帝が彼らを指して用いた呼称である。その後起こったキリスト教勢力との間の内戦の末、ベタ・イスラエル独立国家建国した。その領域現在のエチオピア北西部から、スーダン東部またがっていた。 13世紀までベタ・イスラエルは、キリスト教徒居住地域北西位置する山岳地帯へと移住した当時王国タナ湖北部現在のシミエン山地からデンビア郡にまたがる領域位置しゴンダール首都としていた。建国者であるピネハス王は大祭司ツァドクの子孫であり、その後王国東方南方へと領土拡大した9世紀半ばアクスム王国領土拡大した時期であり、王国ベタ・イスラエル居住地域にも侵攻したギデオン4世治下ベタ・イスラエルアクスム王国軍を撃退したものの、ギデオン4世はこの戦いで戦死したギデオン4世死後国王に即位したのは、王女ユディトであった国王に即位したユディト異教信仰するアガウ族と協定を結び、960年ごろ、アガウ族、ベタ・イスラエル連合軍アクスム王国首都アクスム侵攻した連合軍アクスム征服都市破壊し、この時に多数キリスト教会破壊された。さらに、女王ユディトアクスム王族虐殺した。その中にはデブレ・ダモ修道院幽閉されていた王族含まれており、当時王位継承権持っていた人物すべてが殺害されとされる。 こうして、ベタ・イスラエル王国858年1270年にかけて最盛期迎えた王国については多数記録残されている。ユダヤ人探検家エルダド・ハッ=ダーニーは、「クシュ川の対岸位置するユダヤ人の王国」の出身であると自称していたほか、マルコ・ポーロトゥデラのベンヤミンエチオピアユダヤ人の王国が存在したと書き残している。 1270年ソロモン朝の「復活」により、ベタ・イスラエル最盛期終わり迎えた以降3世紀にわたり、ベタ・イスラエルソロモン朝との戦い繰り広げた1329年エチオピア皇帝アムダ・セヨンは北西部のシミエン、ウェゲラなどの地域対す軍事遠征行った。この地域ベタ・イスラエル勢力圏下で、多く人々ユダヤ教改宗した地域でもあった。 エチオピア皇帝イェシャク(在位1414–1429)はベタ・イスラエル王国征服した征服地で皇帝ユダヤ人対す迫害行った征服地は三分され、皇帝自身任命した代官によって統治された。ユダヤ人社会的地位キリスト教徒より低いものとされ、改宗拒否したユダヤ人土地奪われた。 勅令の中で皇帝は「父の土地継ぎたい者はキリスト教洗礼受けよさもなくば流浪民(ファラーシー)』になるがよい。」と述べており、この『ファラーシー』という単語はのちにエチオピアにおけるユダヤ人対す蔑称となった1435年フェラーラエリヤ息子宛てた手紙の中で、エルサレム出会ったエチオピアユダヤ人男について書き残している。男はキリスト教徒のハベシャ族との戦いについてエリヤ語ったまた、エリヤは男の宗派カライ派ラビ派中間と書き残している。 男の属す集団タルムード知らずハヌカーにも参加しない一方でカノンにはエステル記含まれており、さらにトーラー口伝していたという。その他にエリヤは男が独自の言語話していたこと、男が6カ月をかけてエルサレムまで旅したこと、聖書登場するゴザン川は男の故郷である王国国内にあること、などを書き残している。 1450年までにベタ・イスラエル王国はイェシャク帝に奪われ領土奪還し反撃準備開始した。そして1462年エチオピア帝国侵攻したものの、敗戦多くの兵を失ったその後エチオピア帝国はベゲムデル地方侵攻し7年の間に多数ユダヤ人虐殺した皇帝ザラ・ヤコブ(在位1434年1468年)はこの虐殺功績として、自ら『ユダヤ人絶滅者』と称している。しかし領土縮小し多数人口失いながらも、その後ユダヤ人の王国は再建された。 16世紀エジプト首席ラビであるダヴィド・イブン・ジムラは、ハラーハーの中でエチオピアユダヤ人存在することを認めた1529年から1543年にかけ、オスマン帝国支援受けたアダル・スルタン朝がエチオピア帝国侵攻し帝国崩壊寸前まで追い込んだ。この時ユダヤ人たちはエチオピア帝国協定結んでいた。彼らは当初アダル・スルタン朝を支援しようとしていたが、無視され多数ユダヤ人殺害された。結果ユダヤ人たちはアダル・スルタン朝に奪われ領土奪還すべく、エチオピア帝国同盟結んで戦った最終的にエチオピア帝国戦争勝利しエチオピア征服しようとするアフマド・グランの野望阻止された。 その後皇帝ゲラウデオス治下エチオピア帝国は、ユダヤ人たちがアダル・スルタン朝を支援しようとしていたことを根拠に、再びユダヤ人王国対し宣戦布告したポルトガル支援受けた帝国軍ユダヤ人王国勝利し国王ヨラム処刑した王国領土大きく縮小し、シミエン山地周辺のみとなった国王ヨラム処刑後ラディ新たな国王に即位した。その後国王ラディ皇帝メナス治下エチオピア帝国勝利し南方領土拡張、さらにシミエン山地守り強化した。 サルサ・デンゲル帝(在位1563年1597年)の時代エチオピア帝国は再びユダヤ人王国侵攻した王国包囲されたものの、最終的に帝国軍撤退した。しかし包囲戦の末に国王ゴシェン処刑され多数兵士を含むユダヤ人集団自殺した。 1622年カトリック改宗したことで知られるスセニョス1世治下エチオピア帝国はまたもユダヤ人王国交戦した最終的に1627年王国征服され多数ユダヤ人奴隷にされた。また多く改宗強制されるか、土地失った

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