マニトバ州の創設とウルズリーの遠征
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「ルイ・リエル」の記事における「マニトバ州の創設とウルズリーの遠征」の解説
3月には連邦首都オタワに向けて臨時政府の代表団が出発した。代表団は最初のうちはスコットを処刑したことに関し法的な面で苦境に立たされたが、間もなくマクドナルド首相やジョルジュ=エティエンヌ・カルティエらとの直接会談を行うことが可能となった。双方は権利義務一覧に盛り込まれた要求事項のほとんどを正式なものとする旨の合意に達したが、これがマニトバ州の連邦入りを公式に承認する1870年5月12日のマニトバ法の基礎となった。しかし、交渉の結果代表団たちは臨時政府に対する大赦を勝ち取ることはできなかった。連邦政府の権威を居留地に及ぼしアメリカ拡張主義者達を思いとどまらせるために、ガーネット・ウルズリー大佐の指揮するカナダ軍の遠征隊がレッド・リヴァーに向けて派遣された。連邦政府側は軍の派遣を「平和の使者」と表現したが、リエルは遠征軍の一部民兵が彼に対する私的制裁を狙っていることを察知し、同軍がレッドリヴァーに接近した際に国外逃亡を図った。8月24日の遠征軍到着によりレッドリヴァーの乱は事実上その終わりを告げた。
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