海軍改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/01 00:52 UTC 版)
「ニコライ・フォン・エッセン」の記事における「海軍改革」の解説
戦後は1906年に装甲巡洋艦リューリク艦長に着任。イギリス・ヴィッカース社(英語版)の建造による同艦は、当時の装甲巡洋艦でもっとも重装甲で最多の主砲を備えていたが、速度21.4ノットと低速が欠点だった。この艦はバルチック艦隊の旗艦となる。1908年准将に昇進し、翌年バルチック艦隊司令長官に任命される。1913年、中将に昇進。 エッセンらロシア海軍の若い将官は、日露戦争の惨めな敗北や黒海艦隊での水兵の反乱を反省し、改革に着手する。1907年に策定された建艦計画は彼の努力にもかかわらずきわめて緩慢に進められたため、それを補うため1912年から1916年にかけて新たな建艦・改革法を作成して提出、ドゥーマ(議会)で可決された。彼は新たな戦法や通信技術を身につけた将校を登用し、また潜水艦や航空母艦の有用性に早くから気づいていた。海軍近代化のためクロンシュタットに海軍士官学校を設立、技術や戦術のみならず、士気を維持するため水兵の扱いに配慮することを強調した。また外洋での攻勢を重視して艦隊をフィンランド湾内に閉じ込めない戦略を目指した。
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