海軍技術研究所での仕事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:55 UTC 版)
日高によると、1945年の4月から5月の間に海軍技術研究所(技研)から時局の現状について率直かつ自由に書く課題を与えられた。課題提出前の報告会で、世界の情勢は脱植民地、民主主義に向かっており敗戦後のアジア情勢を考えた場合、無条件降伏を要求される前に朝鮮の独立、台湾の中国返還を約束し、中国や東南アジアから日本軍は撤退して連合国によるアジアの再植民地化を牽制するべきと主張した所、同席していた平泉澄に「議論の進めかたが、皇国精神から出発せず、世界の大勢から説きおこしている」「それは皇国精神の否定以外のなにものでもない」と言われ、議論にまったく賛成できないと全面的に否定され、現状を打開する道は国体の本義に徹する以外にないと叱責された。課題は7月に「国策転換に関する所見」として提出したが、8月12日に技研から呼び出しを受け、海軍の意見と全く異なるという理由で解職された、とされている。 尾高邦雄によると、日高は尾高と共に技研に嘱託で勤務し、戦中は厭戦思想の研究、戦争末期はソ連と中国共産党を仲介に戦争を終結させる計画に参加した。講和によって戦争終結を早める提言を共同で提出したところ最高顧問に厳しく非難され、それに反論した日高は翌日技研をクビになった、とされている。
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