「神聖ローマ帝国」の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:10 UTC 版)
「ドイツの歴史」の記事における「「神聖ローマ帝国」の成立」の解説
これらの活躍を受けて、962年にローマ教皇ヨハネス12世がオットーにローマ皇帝の冠を授けた。いわゆる「オットーの戴冠」であり、これにより「神聖ローマ帝国」が成立したとされる(実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上で現れるのは13世紀半ばである)。こうして、戴冠を受けた東フランク王オットー1世は、西ヨーロッパ世界における盟主としてその威光を高めた。また、このことによって教皇と皇帝という聖俗両権の頂点を中心とした楕円的な権力構造が西ヨーロッパ世界に形成された。しかし、この段階でも現在のドイツという感覚は希薄であり、歴代の東フランク王(かつ、教皇から戴冠された皇帝)は、ドイツ支配にとどまらずキリスト教理念に基づく普遍的な帝国の樹立を目指していた。そして、教会組織を通じた帝国統治を図ったため(帝国教会政策)、帝国内における皇帝権力は徐々に強化されていった。この過程でオットー3世は東の国境地帯を悩ます西スラヴ人諸部族に対応するため、彼らの背後にある強力な西スラヴ人国家ポーランドのボレスワフ1世と同盟を結び、1000年にはポーランドを公式訪問してグニェズノ大聖堂の参拝およびボレスワフ1世との首脳会談を行い、その際ボレスワフ1世に対し神聖ローマ帝国の貴族の称号を授けている。 現代では、当時の歴代皇帝がイタリア遠征を繰り返したためドイツの分裂が進んだという見解もみられる。これは、19世紀に入ってナショナリズムが高揚する中で(ドイツ人という民族意識が民衆に共有される時代において)、ドイツの民族的統一を主張する勢力が主に展開したものである。まだナショナリズムが形成されていない中世においては、逆にイタリア政策を通じて皇帝権が正統化され、ドイツ内の諸侯に威光を示し帝国統治が円滑に進むこともあった。
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